Virgin Queen

 

 気が付けば自分は外に出ていた。

 具体的な時間はわからないが、とにかく夜中であることは分かる。ほの明るい闇の中、月の持つ薄青い光りが視界の色彩を支配する。

 自分がいる場所は宿屋の屋上だった。二階のテラスほど安定した場所ではないが、ここも一応入れないことはない。ほとんど見張り台のような狭いそこに、一人で立っていると思った。

 しかし、ふと正気に返るように周囲を見ると、一際明るく、一際白い存在があった。――あの女性だ。どこまでも美しく、どこまでも清らかで、どこまでも真っ直ぐな光のような、完全なる異界の魂。

 一瞬見るだけでも、その女性に対して頭に嫉妬の痛みが走る。そして、自分が顔をしかめているにもかかわらず、その女性はただ微笑んでいた。最初に初めて彼と会った時、薄っすらと口元に浮かべていた笑みを思い出させるように、静かに、そして朧月のように儚く。

 自分は何かを言った。何を言ったのかは聞こえないし、分からないが、とにかく何かを言ったのだ。とても激しい勢いで、彼女に対し悪意のある言葉を投げかけるように。

 けれど、女性の笑みは変わらない。否、少し変化があるとすれば、それはきっと悲しそうな表情。自分の怒号か罵声に対し、彼女は少し辛そうな顔をしながらもその言葉を受け入れる。そんな芯の強い女性。そんな器の広い女性。そんな、――自分の幼稚な感情を、真摯に受け止める、聖母のような女性。

 彼は更に、その女性に対して嫉妬と憎しみをたぎらせる。何故なら、この状況を見て、誰が悪者かと言えば、当然のことながら自分が悪者になってしまうからである。そんなことはないはずなのに。勝手に現れて、勝手に皆の注目を集めていった、この女性が悪いはずなのに。自分は寧ろ、被害者であるはずなのに。

 ――死人がしゃしゃり出てくるなよ。

 そう吐き出した自分の言葉がようやく聞き取れた時、女性は小さく頷いた。本当ですね、と口元には自嘲の如き笑みを浮かべて。

 その態度に、ますます彼は苛立った。なんでそんなに悲しそうな顔をするのか。なんでそんなに自分の言葉を受け入れようとするのか。なんでそんなに弱いもののふりをするのか。

 憎くて憎くてたまらなかった。羨ましくてならなかった。

 この女性が、もし自分が注目を集めていることを鼻にかけるような女だったら。もし理不尽な言葉を投げかけられたとしても反論するような女だったら。もし自分に対して、嘲笑うかのような態度を一瞬でも取ったら。

 そうすれば、自分はきっと安心できたはずなのに。ああ、結局はそういう女なのだと、納得できたはずなのに。なのに彼女はそんな素振りも見せず、ただ笑顔と悲しそうな表情のみを自分の前で示しつづける。

 不自然なまでの美しさ。理不尽なまでの清らかさ。こちらがどうしようもない敗北感を味わってしまうほどの高潔さ。

 それを目の当たりにさせられて、自分はどんな思いでいるか。しかしそれを彼女に訊ねてしまえば、更に彼女は自らの穢れなき精神を見せてしまうだろう。そんなものは、しかし彼にとっては不必要なものであり、最も憎むべきものである。

 最後に自分は何を言ったのか。頭を振り乱し、何かを吐き捨てるように告げると、彼女は深く、頷いた。それからふわりと、空に舞った。

「――――あ」

 そのまま彼女は落ちていく。白い肌に白いドレス、そして白銀の髪は、ゆっくりと屋根から下りていく。風に靡くそれらは、まるで月の光のように美しかった。

 そう、美しかった。否、未だに美しいのかもしれない。

 唖然とした自分が、彼女が落ちていった下を恐る恐る覗き込むと――だって彼女は完全な異界の魂ではないか。こんなところから落ちたとしても、生きているかもしれない。それに、彼女はもともと死人なのだ――、その女性は死んでいた。否、死んでいたのではないのかもしれない。

 薄い青をまとった闇の中、更に暗い地面の上に、真っ黒な花を咲かせていた。まるで彼女自身が花柱となったかのように、少し不自然に胴体を折り曲げて、黒い花の真ん中にいた。相変わらず肌は白く、髪は白銀で、ドレスも白かったが、ところどころ、黒いもので汚れている。今までまったく汚れを感じなかった彼女が、まるで泥を被ったかのように無残な姿で汚れている――ただ今の時間が、夜だから黒く見えるだけという話だ。

 ―――ああ、なんだ。

 そんな状況にいると言うのに、彼は少し、安心した。

 ――ああ、あの女も、死ねば汚くなるんじゃないか。

 そう心の中で呟くと、心から、自分が安心したのがよく分かった。口元に笑みすら浮かべ、あはは、と腑抜けた笑いを出して、少し広くなった屋上の手すりにもたれかかって、また笑った。

 あの女性がいくら完璧であっても、あんな無残な姿になってしまうのだ。ああそうだ。彼女の完璧なイメージは単なる想像。実際は、こんなにも、ほら、汚くなってしまうものなのだ。

 彼女だって人間。空に浮かぶことも出来ず、月と一体になることも出来ず、ただ空に舞うのも一瞬で、結局は惨めたらしく堕ちていってしまう。

 ――そうだ。あの女だって、結局は人間なんだ。

 月のきれいな夜中に、黒い花を咲かせた女性を見ながら、狂ったように笑った。その心は、どこからか湧き上がってくる黒い優越感と、妙な安心感に満ちていた。

 

「――――――っ!」

 アキラは目が覚めると、自分の体全体がじっとりと汗で塗れていることに気が付いた。それから、そんな夢を見ていた自分が怖くなり、自分に対して肌が粟立つのが分かった。

「――くっ・・・・」

 呼吸が当たり前のように荒い。寝すぎた訳でもないのに、体が無様に震えている。がちがちと歯の奥が音を立てている。自分がそういう面を夢でも持っていたことに対し、とても怖くなる。

 奇妙なまでに怯えた彼に驚いたのか、その部屋の本来の住人――と言っても宿なので部屋割りの上でと言うことになる――が、不思議そうにアキラに声をかけた。

「どうした?昨日のたんこぶが悪化したのか?」

 その落ち着いた、少し二枚目を気取っているようにも感じなくもない声に、アキラはようやく我に返る。それから、頭のつむじより少し下にある後頭部にそっと手を当てると、少し吐息をついた。

 そこを指で触ってみると、少し盛り上がっているのが分かる。頭蓋骨がもともとそういう形になったわけではなく、この部屋の本来の宿泊客が、昨晩、思い切りアキラを拳で殴ったからである。

「・・・・・・してないみたいだ」

「よかったじゃないか。…で、俺に言うことはないのか?」

 マックスが上着を着ながらそう訊ねると、アキラは一瞬怪訝な顔をした。が、自分が何故彼の部屋で寝ているのかが分かって、少し気まずそうに俯く。

「・・・・・・・悪い。勝手に使った」

「ああ。ベッドに男を寝かせるなんて、生涯で一度だけだと思ってたよ」

「・・・・なら女の方はあるのか」

「それは秘密だな。なんたって、今はあいつが一緒だ」

 口の端だけで笑いながら、マックスがドアノブを回す。どうやら朝食に出て行くらしく、それを見てアキラは慌ててベッドから上体を起こした。

「っ――あ、今何時だよ!!

「七刻…半だな。安心しろよ、今行けば三回連続寝坊は免れる」

「・・・・・分かった」

 さすがに三日も皆と同じ時間に食事をしないとなると、怪しまれたりからかわれたりする可能性がある。それを心配して問いかけたアキラの心中をずばりと察して、マックスが返事に対し頷く。

 妙に飲み込みがよくなった理由は、昨日、ファインによってマックスの部屋に投げ込まれ、彼にとうとうと女性に対する態度についての説教をされた後で、アキラが愚痴を吐いたからであろう。

 それを思い出しながら、アキラは大きくため息をついた。昨日は風呂にも入らずに愚痴を吐き続けて寝てしまったので、少し体臭が気になるし、寝たときも普段の服装なので体が少し窮屈に感じる。

 そんな自分の失態に舌打ちしながら、彼はゆっくりと起き上がり、一応脱いでいた上着を着る。

 いつもの習慣で洗面所と朝食を取りに行こうと腰を上げたが、昨日と同じく、妙に気が重い。理由は簡単である。昨日の騒ぎについて言及されると想像すると、どうも相手を納得させることのできる言い訳が思いつかないからだ。その上、昨晩はミュウを泣かせてしまった以上、謝らなければならない。

 ある意味、昨日以上に重い気持ちでドアノブを回すと、リューンエルバの声が聞こえて思わずその手を止めた。

 どうやら廊下で誰かと話をしているらしく、声と一緒に足音が聞こえる。誰かの部屋に行くらしい。その誰かとは、恐らく男ではないだろう。かと言って、学園の生徒たちではない。妙齢の女性の声であることが分かる。

 しかし、妙齢の女性など、この集まりには数人しかいない。双女神に仕える神官であるル・フェイと、リューンエルバの親友らしいイグリアス、そしてリトル・スノーの親友らしいヒロに、あと一人は――

「そう言えば、あの人の前ではずっとシェキルみたいね。どうして?」

 元クリグンゾール側に仕えていた四天王の一人であり、姉妹の魂が一つの肉体に存在する不思議な女性。メイヴであり、シェキル。

 どうやら今はメイヴらしい。彼女の性格が少し苦手な彼は、ここで出てきてはまずいと思い、ドアノブをそっと元に戻す。しかし、ドアの前から遠ざかろうとはしなかった。リューンエルバの言った「あの人」が、――彼の琴線に触れるものだったからだ。

 それに対し、メイヴは少し疲れたような声を出す。

「女王サマだか何だか知らないけど、ああいうタイプは生理的に受け付けないのよ」

「そう?そのくせ、ミュウちゃんみたいな純粋な子には突っかかるじゃない。純粋性で言えばあの人だってタイじゃない?」

「違うわよ。あの女は汚そうとしたところで、むしろこっちをまっさらにしちゃうぐらいの純粋さを持ってる。…むしろ純粋じゃないわねぇ、光そのもの?子猫ちゃんみたいな方法次第では充分汚れちゃう繊細さは皆無。アタシにとって、一番物騒で一番受け付けないモノ」

「ふむ…」

 少し納得したような声がリューンエルバから漏れる。

「じゃああの人は、多分だけど――汚れを知ってるけど純粋ってこと?」

 そんなまさか――。

 思いもしなかった言葉に、彼は一瞬息を止める。自分の存在を彼女たちは分かっているわけではないのに、思わず身を堅くした彼を気にせず、メイヴが返事をする。

「そ。ついでにそれが一番厄介なのよねぇ。あの女を徹底的に汚そうとしたところで、あの女はそれを飲み込んじゃう。汚れを払うんじゃなくて浄化するって感じ?汚れがあったとしても取り込んじゃう。そんなだから、あの女に手出ししたところでこっちが無駄骨になるのは目に見えてる」

「無駄骨になるから苦手なの?それって自分の欲にこだわりすぎてない?」

 もっともな指摘に、メイヴはからからと笑う。

 しかし、そんなことを彼は気にする暇などなかった。あの真っ白に輝く女性は、自分が嫉妬するほど純粋な女性は、もしかして汚れを知っているかもしれない――。それはどんな類なものかは具体的に思いつかないが、それでも汚らわしいと言われるものを、彼女は知っている?

 ――そんな、まさか。

「だって、アタシはそういうタイプなんだもの。無駄な努力なんてイヤだし?だからあの女は苦手。それに、アタシがこんななんだもの。男側でもあの女を汚そうなんて思う奴はいないんじゃないの」

「確かにね。あなたが言うと、妙に説得力があるのよねー」

「そんなことする奴なんか、アタシが呆れるぐらい我の強い奴か、それとも感心するしかないぐらいそういう欲がある奴かのどっちかでしょ」

 深く頷くような声が、リューンエルバの喉から漏れる。メイヴの気紛れな黒猫みたいな笑い声が聞こえると、ドアが閉まった音がした。それから静寂。

 いなくなったのだと気がつくと、アキラはそっとドアを開けた。勿論、廊下には誰もいない。むしろいる可能性はかなり高かったが、そこまで二人共、宿にまで気を張り巡らさないのだろう。少し安心すると、アキラは静かにドアを閉める。それから、自分の顔が青くなっているのか赤くなっているのか分からないような気分で、逃げるように洗面所に向かった。

 

 汚れる、の意味は、それこそ具体的な例は多々にある。

 喩えば血で汚れる。

 その言葉を自分の身に置いてみても、いまいち違和感が拭えなかった。何故なら、戦いに身を投じていながら、アキラは自分の手が汚れているなんて思ったことはなかったからである。相手はモンスターだ。得体の知れない世界に生きる、得体の知れない生き物たち。昆虫のように見えるものもいれば、哺乳類に見えるものもある。けれど、結局は彼は知らない種類の、知らない生き物だ。知らない生き物だからこそ、命を奪うことに後ろめたい気持ちにならなかったのかもしれない。戦う間に『やらねばやられる』という意識がすんなりと働くのも、害を成す生き物だと思っているからだ。

 しかし、確かに彼女は戦争を生き抜いてきた時代の偉人である。いくら美しく見えても、一度は戦場に立ち、人間同士の争いに参加し、誰かを殺した経験があるのかもしれない。けれど、そうは見えない。戦いが既に終わり、その体はその戦争で人を殺した体ではないからだろうか。

 そして次には、精神的な汚れ。純粋さが何故尊いとされ、それが脆く人の目には映ってしまうのか。それは大抵の大人の心が純粋さというものを失い、汚れているものだから。この点に関して言えば、アキラは自分に当てはめることなど気恥ずかしくてならなかった。自分でまだ自分は純粋だ、なんて言う神経の太いことを言うつもりはないし、しかし自分は既に純粋じゃない、なんて不良を気取って自分に酔っているように感じてしまう。だから、この点では彼女のことにシフトするのも、止めておこうと思った。

 その次にあるのは、肉体的な汚れ。女が男に汚される。そういう汚れ。それに関しては彼はまだ自分は確実に汚れていないと言えるが、それを彼女に変換して考えるとどうも恥ずかしい。なんだか、そういうことばかりを嬉々として考えているわけではないのに、心の底が少し乗り気なのが妙に腹立たしい。そんな、色欲のことに心を揺さぶるような暇は、彼にはないはずなのに。けれど、やはり考えてしまうものである。彼女の知る汚れがもし、肉体的なものならば――。彼女が誰かに抱かれたことがあるならば――。

 それを考えただけで、一瞬にして自分の体が熱くなる。自動的にそういうものを想像してしまう自分に更に嫌悪感が増すが、本当にどうなんだろう、という純粋な疑問もある。しかし、そんなことを訊ねるのは気が引けるし、それにあの冥界王と名乗る小鳥のことも思い出される。否、そういうことを、自分は彼女を相手にしたいのではないのだが。

「アキラ」

 自分の言い訳に頭を捻る彼のすぐ隣に、ミュウがそっと腰掛ける。その表情は少し硬く、緊張しているらしい。少し驚いたアキラではあるが、小さく頷いてミュウを見た。

「・・・・ん」

 自分の先ほどまでの顔が変な顔じゃなかったか。それが少々気になる彼ではあったが、それについて訊ねるのは、同時に恥をかくことになる。それと同時に、彼女に関する性的なことに関し、自分の過剰反応の激しさに妙な違和感を覚えた。

「昨日は、ごめんね」

 しかし、ミュウはそんなことを気にしている余裕はない。彼の表情が不機嫌かどうかだけだけの判断をしながら、彼を見やっている。それに、アキラは先ほどまでの考えを放棄した。

 そうだ。今まで考え事に耽っていたせいで昨日のことを頭に入れる余裕がなかったが、昨日ミュウと喧嘩したのだ。それを思い出し、一瞬戸惑ったアキラだったが、ここでこの空気を壊しても自分が素直になれないだけだ。緊張はしていたが、なるべく態度を変えないように、ゆっくとり頷いた。

「俺も・・・・・・・ごめん」

「うん」

 ミュウが少し微笑む。表情はまだ彼女が本来持っているものではない、大人しい微笑だったが、先ほどと比べれば表情は幾分か柔らかくなっていた。

「別に、俺のことは気にするな。変に気使われたら嫌だ」

「うん。分かった」

 こくりと頷くミュウ。更に表情が柔らかくなったが、それでも少し遠慮がちな笑顔のまま、朝食と向き合う。

「けどね、やっぱりボク、スノーさんとあんまり一緒にいるの、止めておくことにする」

「…何でだよ」

「うん、それ、昨日言おうと思ってたんだけどね…」

 分厚いハムとポーチドエッグを軽く焼いたライ麦のパンで挟むと、それをサンドウィッチにして食べる気らしい。ミュウは手を軽くナプキンで拭うと、小さめの口を精一杯に開いて、パンを三分の一ほどかぶりつく。

 ポーチドエッグは完全な半熟状態ではなかったらしく、黄身が固まっているものの、中心の部分はまだ柔らかくとろりとしていた。それを慌てて舐め取りながら口の中のものを噛み、黄緑色のグレープフルーツに似た味がするジュースを半分ほど流し込む。かなり強引な食事方法に、アキラは少し呆れた。

「・・・・そんなに急ぐんならちょっとずつ食べろよ」

 その正論に、ミュウは眉根をしかめるだけで何か反論したそうな表情を作る。

 それにしても、ハムと卵とライ麦パンとグレープフルーツがごっちゃになった味は美味いのか。それが呆れると同時に気になっていたアキラであったが、自分もそれに挑戦するつもりはなかった。美味いものと美味いものを組み合わせれば、更に美味くなるなどという道理はあまり通用しないからだ。

 アキラもハムとパンを食べながら、ミュウが完全に口の中を空にするまで待つと、やっと飲み込んだらしい。ごくりという妙に逞しい音を立てて、ミュウの細い喉が大きく動いた。

「…それで、昨日言うつもりだったんだけど、ナギたちがね、あんまりスノーさんと一緒にいちゃいけないって言うんだ」

「・・・・・・・それで?」

 意外だと思いながら、一口ジュースを飲む。異界に興味があるナギが、詳しく教えない自分よりも、丁寧に教えてくれそうなリトル・スノーに懐くのは、当然のことだろうと思っていたのに。

「うん。ボク、不思議に思ってなんで?って訊いてみたら、みんな、自分を――なんて言うのかな、見失っちゃうぐらいに、スノーさんと一緒にいるのが嬉しくなっちゃうんだって」

「――別に、いいことじゃないのか」

 嬉しいんならいいじゃないかと心の中で悪態をついたアキラに、ミュウは彼とは違った種類のしかめっ面をする。

「うん。ボクもそう思ったけど、みんなはいやみたい。ボクはそうはならなかったから、いまいちよく分かんないんだけど…」

「・・・・それだけの理由で、一緒にいるなって言われたのか?」

「うん。そうだよ。ヘレネもリュートも、ノーラだって、スノーさんと一緒に遊ぶのは楽しかったけど、ずっと一緒にいたらだめだって言うんだ。自分が変わっちゃうって。そこまでみんなが言うんなら、ボクもスノーさんとはちょっと距離を取っておいたほうがいいのかなって思って、昨日、ずっと悩んでた」

 相槌を軽く打つアキラに、ミュウは小さくため息をつく。

「アキラと喧嘩した後さ、ホルンたちにもそれを言ったんだ。そしたら、ホルンたちはそうは思わなかったみたいで、なんでかなって思って、ボクらがスノーさんに取ってた態度を思い出しながら、よく考えてみたんだ」

「・・・・・・それから、どうしたんだよ」

「多分、ホルンやグリューネルトは、ボクたちと違って、ちゃんと一線引いた態度って言うのかな、――ボクらはちょっと年上のお姉さん、みたいな感じで接してたけど、あの子たちはきっと、自分がスノーさんを尊敬してることも、ちょっと身構えちゃうことも、分かってる上でスノーさんと接してるのかなって思った。うん、あくまで、ボクがそうかなって思ったぐらいなんだけど…」

「・・・・じゃあ、そういうふうにこれから接したらいいんじゃないのか。別に、一緒にいるのを止めなくてもいいだろ」

 そう言われて、ミュウはぴくりと眉を反応させる。自分も考えた末にそう思っていたところがあったらしい。渦巻き状にかけられたハチミツ入りのヨーグルトを激しくかき混ぜながら、重々しく口を開く。

「そうだけど〜・・・・・。ボク、そういうのちゃんと自分で分かりながら出来ないもん。それに、不自然に身構えちゃったらスノーさんだって一緒にいても楽しくないだろうし…。けどボクも、スノーさんと一緒にいて、自分が自分じゃなくなっちゃうのはいやだしさ。だから、一緒にいるの、控えるようにする」

 改めて決意を固めたようにもう一度頷くミュウに、アキラは小さくため息をつき、肩の力を抜いた。

 自分がまるで駄々をこねた子どものように、彼女たちがリトル・スノーから離れることを望んでいたことは事実だった。完全な異界の魂を強引に無視してでも構ってほしかったのも事実だった。けれど、そんなことを主張できる立場でもなければそれを強要できる立場でもないのだ。しかし、現にそうなってしまっている。

 上手く行き過ぎていると言うわけではない。ミュウもナギも、リュートも、きっと自分よりリトル・スノーと喋っている方が楽しいのだろう。けれど、第六感からの危機感を言い訳にして彼女に近付くのを控えるという。自分の気持ちがばれていないことを密やかに喜びながらも、自分がミュウの行動を束縛する一つの切欠になるのは、あまりいい気持ちではなかった。それに、そんなことを言っておいて、自分が嫉妬していることを察して、なだめるつもりでそんなことを言ったのではないかとも思ってしまう。どちらにしろ、いい気持ちにはならない。

 けれど、リトル・スノーに彼女たちが懐くも、やはりそれはそれで腹立たしい。結局、自分の心の安静が保たれないまま、これからずっとこんな気持ちで一ヶ月を過ごすことになってしまうのだ。想像しただけでも気が重い。

 トレイを持って立ち上がるアキラを見て、まだお手製サンドウィッチを食べているミュウが少し驚いた。

「もう食べたの!?ちょっと、…早いよアキラぁ」

「あんたが効率の悪い食べ方するからだろ。俺のせいじゃない」

「そうだけどさー…」

 言いよどんでいる合間にも、早速立ってカウンターにトレイを戻す。その後姿を見かけたのか、騒がしい中にマックスの声が聞こえていた。

「アキラ!今日は錬金所に行くから外で待っててくれ!」

「分かった」

 返事をしておいて、部屋に戻っても何もすることがないので早速フロントのほうへ向かう。錬金所は最初の料金さえ払えば倉庫を提供してくれるから、その錬金にかかる金を持っていくだけでいい。その手間料も、大人の金遣いが荒くない者がしっかりと管理しているため――大体持っているのはイグリアスかマックスかル・フェイだが――、アキラ自身は手ぶらで済む。

 しかし、そうしてゆっくり歩いている間に、アキラは忘れてしまっていたらしい。否、知らなかったと言ってもいいだろう。昨日からの習慣らしいが、アキラは昨日一昨日と寝坊していたのでその女性がそこにいることを知らなかった。

 ロビーの淡い茶色のソファに体を預けた、リトル・スノーがそこにいた。

 昨日はまともにその姿を見ていないが、初めて明るい日差しのもとで見たときと同じである。たっぷりとした淡い銀髪に、美しく、まるで芸術家の魂が乗り移った彫刻のような静謐さを持つ表情。かたちは違えど、歴史に残されたような素晴らしい聖母像を目の当たりにすればこんな気持ちになるのだろうとすら思ってしまう。しかし、次に現れる感情は、幼稚だがその分深さを感じさせる憎しみ。

 ――この女さえいなければ、こんな気持ちになることもなかったのに。昨日からの憂鬱を味合わなくて済んだのに。この女のせいで、難しいが順調だった自分の生活が乱れている。

 ただ存在するだけで、自分の気持ちが嫌になる。相性が合わないなどという穏やかなものではない。もっと深くて、もっと根本的なもの。本能的な嫌悪だと錯覚するほど、理性が激しく彼女を嫌っている。

 その女性はふと頭を上げると、薄く微笑んだ。何と言うことはない。ただの挨拶のためだけの笑みだ。

「おはようございます」

「・・・・・・・・・・・」

 返事を返しもせず、彼女と目を合わせるつもりもなく宿のドアを開ける。そして外に出ようとしたとき、背後から声がした。恐らくロビーからではないだろう。ロビーから食堂に繋がる廊下からの声だった。

「おはようございます」

「おはよう」

 誰の声なのか判断するつもりはなかった。少女であるという以外には分からない。ただ、丁寧にリトル・スノーに挨拶する声は、尊敬の念を潜めている。――自分にそんな思いを向けられたことは、一度たりともないと言うのに。

 大きな音を立ててドアを閉めると、小さく悲鳴のような声が聞こえた。

 たっぷりとした鮮やかな紫の髪をきっちりと三つ編みにしている髪が見えた。ネージュか。

 怖がらせてしまったことに罪悪感を感じながらも、自分にそんなことをさせたのはリトル・スノーだと思うと、罪悪感と同時に憎悪の感情が生まれてくる。勿論、そんなことをしなければいいのにと、自分でも分かっていながら。

 ドアを閉めてしまえば宿の声も聞こえない。あるのはただ、朝の清浄な空気をまだ残す街の喧騒だ。宿屋は街の中でも少し中心部から外れているので、喧騒の真っ只中にいるよりも周囲がよく見える。

 手押し車を引いた親爺が何かを売っていれば、太った中年の女性がその車を追いかけて、何か大声で叫んでいる。買うものでもあるのかと思いながら見てみても、別に買うものなどないらしい。むしろ釣り銭を受け取るのを忘れたのだろう。親爺と言い合いをした後、何か小さいものを手のひらで受け取って、ゆっくりともとの道を帰っていった。それを一部始終見ているのは自分ぐらいなもので、他の通行人は何かを読んでいたり、知り合い同士と喋っていたりする。

 その光景を見れば、重く暗い気持ちでいるのは自分だけなのだろうなと思い知らされて、何だか馬鹿らしくなる。自分一人が勝手に腹を立て、勝手に恨んでいることが呆れるほど幼稚に感じられる。

 ――けれど、結局、彼女の顔を見れば、また怒りや憎しみが湧いてくるのだろう。それを思うと、自分の進歩のなさにどうしようもなく情けなくなる。

「待たせたな」

 お決まりの挨拶を聞いて、アキラがふと顔を上げる。そこには予想通り、マックスとイグリアス、それから珍しくアルフリードがいた。

「・・・・・ル・フェイは一緒じゃないのか」

「なに?あたしじゃなくて、ル・フェイに来てほしかったの?」

 相変わらずの子悪魔のような笑顔を見せて、アルフリードがそうからかう。それに、アキラは挑発に乗るまいと耐えながら首を横に振った。

「違う。お前、錬金所は退屈だって言ってただろ。だから来るなんて予想できなかったんだよ」

「宿でじっとしてるよりマシだから来たの。今日はあたし、練習に行けないしさ」

 練習、とは過去に行ったことのあるダンジョンに再び行くことを指すらしい。確かに、アイテム回収の他に、次の目的地まで自分を鍛える意味合いも持つ。

「なんでだよ。ついていけばいいだろ」

「前に行ったら怒られたんだもん。酷いと思わない?」

 怒った張本人はイグリアスらしい。親指でアルフリードの背後にいるイグリアスとマックスのどちらかを指す仕草をすると、イグリアスがわざとらしく咳込んだ。

「こんなところで立ち止まってるより、歩きながら話したほうが時間が有効に使えると思うけど。それとも行かないの?二人とも」

「はいはい。いくいく」

 あからさまに面倒臭そうな表情のまま、アルフリードが軽く駆け足で門の方に向かう。イグリアスの鋭い視線を浴びて、彼も足を進める。アルフリードと並んだ彼を、少し心配そうに見たマックスと視線が合ったが、それを敢えて無視するように、彼は足を速めた。

 

 

 深い闇は、魔族の、男のもののはずだった。

 男は誇り高い魔族の長として、人間どもが恐れ、憎み、怯えるべき存在として君臨していたはずだった。人間どもが恐れるものは彼のもの。底なしの闇然り、毒々しいほどの鮮やかな血の海然り、戦場の鬨の声然り、物言わず同族にですら恐れられる形相の屍然り。恐怖の具体化は彼であり、魔王として真に相応しいのは彼であった。

 しかし今はどうだ?自分の持つものよりも深い闇に怯えながら、男はただそこにいることしか出来ない。勝手に動き回ろうものなら、いつの間にか自らのものより暗い闇に足元から飲み込まれてしまうだろう。そして、自我もなく冥府の闇と一体となる。

 ――そんな魂の結末は、男は自らの誇りにかけて許せなかった。だから、いくら今の自分が非力であっても、この状況がいくら屈辱的であっても、耐えるつもりでいた。

 そう、つもり、の話だ。いくら彼が誇り高い精神を持とうと、いくら彼が何かに従属することを嫌おうと、いくら彼の魂が力ずくの束縛を嫌おうと、彼とて仮初の器に宿った精神の疲労を知り、怯えを知る。

 男の限界は常に微弱に揺れ動く。彼を正気にさせるのは、彼の心を安定させるのは、ただの一人の存在。しかし、今はその存在もいない。

「――あらあら。まだ持っていらっしゃる」

 心底楽しそうな声が、男の頭上から降ってくる。その声に、薄く汗ばんでいた体を軽く揺らした。――体、とは妙な言い方かもしれない。ただ精神が生前の肉体の形を持っているように、自分自身に見せかけているに過ぎない。しかし、背筋を伝う汗の冷たさも、体の奥に宿る熱いけだるさも、疲労の底にある手足に錘が詰まったような感覚も、全て再現されている。自分が死んだ身であるにもかかわらず、何かを「感じる」ことが出来る不可思議な現象に、しかし男は既に慣れていた。ただ疲労と恐怖を死後も味わうことになるとは思っていなかったが、実感すればただそれだけだ。

「・・・・・何か用か、冥界王」

 渇いた喉がそう告げる。声は脆弱でありながら気迫を持ち、甘い優雅さを持ちながら荒々しい。

 その声を聞いて、冥界王と呼ばれた少女は楽しそうに笑った。彼女の声はまるで黒いレースのような、華やかさと妖しさと媚びるような可愛らしさが同居していた。

「お元気そうでよかったですわ。さすが大魔王に否定されたとは言え、魔王として生きたもの――抵抗して頂かなくては拍子抜けですもの」

 にこりと可愛らしい微笑みすら浮かべてそう挨拶をする少女に、男は鼻で笑う。

「――抜かせ。貴様からの世辞などいらん」

「ええそうでしょうね。何せ、貴方はわたくしを苦々しく思っていらっしゃるもの。自分よりも深い、闇を持つわたくしを」

 男は何も言わない。言うつもりもないのか、それとも何かを言えば倍以上の言葉が返ってくるのを分かっているからなのか。

 少女はどう取ったのか、上品な笑い声を重い闇の中に響かせて、くるりと男の目の前で回った。スカートが揺れ、彼女の瑪瑙のような髪もふわりと揺れる。意外にも優雅な動きを見せた少女に対し、しかし彼は何の感情の変化も見せなかった。――ただ見せるとするならば、それは敵意と疲労。少女が現れた時と一瞬の変わりもない表情。

「・・・・素直な方。わたくし、貴方がたは嫌いではありませんわ。それどころか愛しいぐらいです。貴方がたを丸ごと包んでしまいたいぐらい、愛しているかもしれません」

 男は腹の底から黒い笑みを見せる。

 いくら疲労を積もらせようとも、いくら独りで長いときを過ごそうとも、この少女に対し、男はただ憎しみと敵意しか抱いていない。元々、彼は生前からそうだった。自分が愛しんだたった一人の人間以外、男は好意を持つことすらしなかった。むしろ人間という種族に対し、タールのような粘りを持った敵意と憎悪のみを持っている。しかし同族であるからと言っても、彼は心を許さなかった。自分に従おうが従うまいが、自らの欲望の駒に過ぎない。敵意はなくとも、そこには信頼も同情もなかった。温かい感情など、美徳とされる想いなど、彼はただの一人以外は、誰にも持たない。

「貴様も偽りの神と同じだな。綺麗事をほざき、自分の駒に手を汚させながら、自分は美味い汁のみを吸う」

「そんなこと、神でも冥界王でも、国王でも同じことではありませんの?これはシステムですもの。誰がそうしようと思ったわけでもなく、ただ権力の頂点に立てば立つほどそうなるだけですわ」

 可愛らしい眉をしかめて、まるで男の言葉に傷付いたとばかりの表情すら見せて軽く項垂れる少女に、しかし男は眼光の鋭さを緩めるつもりなどはない。

「ほざけ。貴様らの欲望は底がない。永久の『世界』の支配では飽き足りず、不可侵のはずであった他の領域にまで牙を剥くような真似は、人間どもには思いもつかん」

「まあ失礼なことを。『宇宙の意思』の具現化を企み、彼の者を打倒せんとした貴方に言われる筋合いはありませんわ!」

 まるで高貴な婦人がそうするように、男の言葉にヒステリックな声でそう返す少女に、男は声を出して笑う。

「そうだったな――ああ、そうだ。しかし、ならば貴様も分かっているだろう?」

 妙に優しい、猫なで声と言ってもいいほどの声に、ちらと少女は男の方に視線を向ける。男はまだ色濃く疲労が残っていながら、それでも不敵で挑発的な笑みを少女に見せた。それはまさしく生前の男が、戦を前に見せた笑みそのものであった。

「志が些か他より高過ぎる者は、その志により死滅する」

 少女は面白くなさそうな、何とも愚かなことを聞いたように男を見下した。

 すました態度で胸に手を当てると、男が見せたものよりずっと艶かしく残酷な笑みを口元に浮かべる。その笑みは、確かに妖艶であり、可愛らしく瑞々しい肌の少女の外観とのちぐはぐさとの相違に奇妙な魅力がある。そうそれは、まるで死者の国の王が、いきいきとした表情を持つ美少女であることと同じくらい、奇妙な相違感。

「生憎、この体は死を超越していますの。いつぞやの人間の剣は確かにわたくしを消滅しましたけど、あんなものは単なる蜥蜴の尻尾切り。――死者が我が手中にある限り、わたくしは完全なる消滅を迎えませんもの」

 ――つまり、この世界が生命も死も何もない『無』そのものにならなければ、冥界そのもののの化身、冥界王も消滅しない。そう微笑む少女に、男は苦々しい表情の一つすら見せない。

「その尻尾切りのお陰で、適度な手駒を失ったと言うのにか?奴が貴様の手を逃れてからだろう。貴様があいつに上に出るように持ち出したのは…」

「お黙りなさい」

 今までは打って変わった、凛とした少女の声に、男はせせり笑う。

「珍しいな。図星か?しかしそれも無駄骨に終わる。俺は貴様に従うつもりなどない」

 男の言葉に一瞬でも動揺した自分を恥じたのか――冥界王に恥じるという感情があるのかどうかは不明だが――、少女は再び表情を先ほどまでの余裕を持ったものに戻すと、そのままにこりと笑った。生憎、目の奥は笑っていないが。

「ええ存じていますわ。それに、貴方を操ろうなどとは思ってはいませんもの」

「ならあいつを次の駒にするつもりか?貴様の器に収まりきるような魔力ではないぞ」

「無尽蔵でもないでしょう?それに『死』は深い――たとえ異界の魂の魔力がわたくしの範疇を超えたとしても、彼女は魔力を補給するだけの存在になどいたしませんもの。存在も、機転も、容姿も、貴方への愛も・・・・・・全て利用してこその手駒」

 うっとりと喜悦の表情を浮かべ、笑い出す少女に、男はただ無言でその少女を見据えた。

 一見すれば人間では誰しもが可愛らしいと思い、油断を誘う姿の少女。時には息を呑むほど残酷であり、しかし時には神のものかと思わせるほど慈悲深い。その表情を変えながらも、実際、「死」はまるで少女を見かけたときのように、人魔の心の隙に取り入るように襲い掛かる。そう、確かに少女が暗に自らを冥界の――死の化身と示唆したように、確かに少女は「死」に似ている。

 けれど男は、この少女に、「死」の具体化に屈するつもりなどなかった。そして、「彼女」もこの少女には膝を付くまいと強く思い、同時に願う。目の前で笑みを浮かべる少女とは別の、もう一人の女王。この少女とはまるで逆の印象を持ち、神にも成りえた力を持つ、男が愛したたった一人の女王。

 「彼女」がこの少女に屈しなければ、男も少女に屈することはない。ただそれだけの自信を持って、男は一人、ただ闇の中でうずくまる。

 可愛らしい、いつしか狂ったように聞こえた高らかな笑い声は、余韻も残さず消えていた。

 

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