The daughter of a snowy field

 

  静穏な白い光が、少々の埃をちらちらと照らしながら室内を仄かに明るくさせる。

 漆喰の壁は生成りの白で、木製の本棚は何度もニスが塗られて黒ずんでいるようなこげ茶色。かなり骨董品に近い日時計がカウンターの柱に掲げられていた。時刻は十一の刻を過ぎている。

 そしてその白とこげ茶の世界に、ただ鮮やかな色彩を持つものがあるとすれば、それはきっとここの主役たち。彼らなくしてこの蔵の意味は成り立たない。彼らなくしてこの世界の知識を触れることは出来ない。彼らなくして、具体的な知識の形が他にあるとは思えない。

 それらはしかし、鮮やかとは言いがたい。確かに美しい赤の革張りのものがあったり、白の背表紙に銀を施した立派なものはあるが、外見に拘る本など、人間のそれよりも虚しいものだ。問題は、如何に美しい言葉を使い、実用的な知識を与え、そして読者に感銘と影響を与え、より多くの読者に調査され、議論され、彼らの知識の土台と為り得るか否か。

 しかし、彼らは何も、実用と知識の具体のみに心血を注いで造られたわけではない。ある者は言葉遊びを載せ、ある者は自らの立派な空想を載せ、知識以外の、けれどとても大切なことを教えてくれる。

 チョコはその静かな空間を気に入っていた。ただ本が好き、読書が好きと言うわけではなく、単純にこういった空気が好きだった。静かだが緊張はなく、穏やかだが刺激がないことはない。そんな矛盾が自然と同居する小さな世界。

 彼女は、どうしてもこの一つの静かな世界の入り込むと、理由らしい理由もなく、はしゃいでしまいそうになる。軽い足取りで本棚の周りを歩いたり、鼻歌を歌ってしまいそうになるが、そこまで浮かれるとさすがにただの変人だ。ただ、うさぎのぬいぐるみを握り締めるだけで、その興奮を抑えようとした。

 この町にある図書館は、どこかの蔵を改築した、小さな規模のもので、あまり品揃えもいいとは言えない。最新の流行書や、少女たちが好むロマンスなどは、もっと大きな街の方が沢山ある。ここにある蔵書は、どちらかと言えば時代遅れの、話題になった議論本や、もう既に常識として定着しているような事柄を新発見として大きく掲げているような本ばかりだ。埃が手についてしまいそうな歴史書すらある。

 そして、隔離された空間なりにも情報にはいち早く対応できる学園都市にいるチョコとしては、それらはただ懐かしいものでしかない。ただ一度吸収した情報を、もう一度なぞったところで、少女には新たな発見があるとは思えなかった。それは発見ではなく確認であり、場合によっては懐かしさもない、退屈な発見となるだろう。そうなってしまっては、自分の中の本たちに対する愛着が、少しずつ負の感情のものへとシフトされていってしまうかもしれない。それはあまりいいことであるとは思えない。むしろ、姉のようにただ落書きの対象になってしまう可能性がある。

 チョコはため息を一つ吐き、自分の知らない、けれど興味を持てるような本がないか、もう一度ぐるりと本棚の間を回る。

 本棚に順序よく並べられたそれは、あるものは読んでしまったもの、あるものは知らないけれど全く興味を持てないもの、あるものは読んで結果的にいい印象が持てなかったもの、の三種類しかない。とても由々しき事態ではあったが、それを今、図書館の司書兼館長である老婆に言っても仕方がない。何より、その老婆はチョコから見れば少し苦手な人物像に見え、気軽に話しかけるのも躊躇われる。

 歴史書のコーナーにまで差し掛かると、チョコは一瞬呼吸が止まった。

 昼とも朝とも取れない、ただ明るく白い光が、黒縁の窓から漏れてくる。その光を自然と受け止め、そして更に自らにその輝きをまとっている人物が、そこにはいた。

 故郷の預言者、守護女神。異界の魂。ナナの森の巫女。そう謳われたリトル・スノーが、柔らかな表情で幾冊かの本を選んでいた。白い指はなめらかな茶色の背表紙をそっと手に取ると、それを真っ白なドレスの胸元にある何冊かと一緒に抱え上げる。その目は真剣で、同時にとても楽しそうで、まるで買い物でも楽しんでいるかのような様子だった。

 リトル・スノーはもう一冊をどうするか、少し考えているらしい。先ほどまで楽しそうに迷っていた指が口元に行くと、彼女の白銀に輝く髪の一房がはらりと落ちる。重心を腰に置き、細い腕に沢山の本を抱え、顎を引いて深く考えるその姿は単純に美しかった。その上、後ろの窓からの光、そして窓枠のがっしりとしたシンプルな線が彼女の柔らかく華奢な体の線を強調し、まるで一枚のリトグラフのように見える。

 一瞬見惚れてしまったチョコではあるが、本選びに夢中になっているリトル・スノーの手元の本が少しバランスを崩してゆっくりと腕からずり下がっているのを見て、正気に返った。

「あ、あぶな…!」

「え?」

 急に言われたことに驚いたのか、チョコの方を振り向くリトル・スノーの腕がますます緩む。そしてチョコの折角の注意も虚しく、リトル・スノーの腕からは、何冊もの本が足元に落ちていった。

「・・・・・」

 カウンターの老婆にもその音は聞こえたらしく、老眼鏡のまま、身を乗り出して彼女たちのいた列をぎろりと睨んでくる。それに、老婆の手前側にいたチョコは慌ててお辞儀をした。

「だ、大丈夫です。ちゃんと元に戻しておきますから…」

 本を戻そうと屈みこんだ体勢のまま、焦った笑いを浮かべるチョコとは違い、リトル・スノーは黙々と落ちた本を片付けていく。ページが中途半端にめくれてしまったものは折り目を戻して手で埃を払い、中にまで被害が及んでいないものも、痛まない程度に軽く手で埃を払う。

 真っ白な手が、埃によって薄く汚れていく様を見て、ほんの少し、チョコは胸が痛んだ。リトル・スノーという人物と、その人の印象から言って、簡単に埃や不潔なもので汚れてしまうのは、相応しくないからだ。

 そして全ての本を、自身の指やドレスより大切に扱ったリトル・スノーは、チョコを見るとにこりと微笑んだ。案外、人懐こい印象のある笑みだった。

「ごめんなさいね。注意してくれたのに、落としちゃって」

「いえ…!わたしの方こそ、あの、急にお声をかけてしまって…」

 まっすぐに、思いつく限りの青よりも印象に残る青い瞳に、今は自分が映されている。それに思わず緊張してしまったチョコに、リトル・スノーは目を細めるようにして笑った。

「いいの。言って貰わなかったら、きっと歩いてるときに落としてたでしょうし。今でよかったわ」

 急に声をかけたチョコを擁護するような言葉に、チョコは思わず気まずくなって俯いてしまう。自分だって、一瞬彼女に見惚れてしまったせいで、急に声をかけることになったのだ。それまでに見惚れないで挨拶なりなんなりをした後に注意すれば、落とさずに済んだかもしれない。

 そう言い返そうとしたチョコを気にすることなく、リトル・スノーは再び微笑むと、小首を傾げてチョコの姿を見た。

「・・・・・さっきまで、ずっと歩いてたみたいだけど、あなたも本を読みに来たの?」

 見られていたらしい――そう思うと、途端にチョコは今までの行動を振り返り、ふらふらと本棚の間を彷徨っていた自分が、とても情けなく感じた。しかし、当然のようにリトル・スノーは穏やかな目で、彼女を責めもせず、からかいもしない優しい視線を向けてくるだけだ。自分の返答を、嘘や言い訳を含めてもあっさりと信じてくれそうな柔らかい促しを受けて、チョコは戸惑いながらも正直に答えた。

「・・・・ここの、空気が好きですので、ただ、歩き回っていました・・・・・」

 何とも言えずしまりのない返事だと、自分でも幻滅しながら答えたチョコに、少し嬉しそうな顔でリトル・スノーが目を見開く。

「そうね。読書にはあまりいいとは思えないけど、考え事をするにはいいところだわ」

 そう言われて、思わずチョコはその美しい人を見返す。予想以上の好感触な返事に、むしろチョコは調子に乗るより戸惑った。何故ならリトル・スノーの言ったことは、まさしくチョコが思っていたことでもあったからだ。

「あ、あの・・・・・・」

 戸惑うように見上げられて、リトル・スノーは片目を閉じて口元に笑みを浮かべる。自分の言ったことを戒めるように、既存の彼女のイメージとは違い、悪戯っぽいものを宿して。

「だめかしら。図書館なのに読書に適さないなんて言うのは」

「いえ…!わたしも、そう、思います…」

 にっこりと、相槌の意味でリトル・スノーが微笑む。それを見て、とうとう今まで抑え続けていたチョコの心の鎖が外れた。微笑を返すと、細い腕が持つ何冊もの本を見る。

「あの、陛下は・・・・・・」

「名前でいいわ。あなたは?」

「チョコと申します。あの、スノーさま、その、手にしていらっしゃる本は、全部お読みになるおつもりですか?」

 そう言われて、リトル・スノーは軽く頷く。

「ええ。一応、少し前の歴史ぐらいが、わたしにとってちょうどいいから」

 何がちょうどいいのかは分からない。確かに、最新の情報の真偽を自分で判断するのは大変なことであるから、そういう意味でそんな表現をしたのかもしれない。

 ならば、と自分を勇気付けると、チョコは自分の鼓動が早くなるのを感じながら、それでもせめて落ち着いているように見えるようにと祈りつつ、口を開いた。

「あの、それでしたら、宿泊所に運ぶのを、差し出がましいとは思いますけど、手伝っても宜しいでしょうか。・・・・その、あんまりにも沢山あるので、また落とされないかと気になったものですから…」

 リトル・スノーの明るい笑みで彩られていた表情が、少しずつ何とも言えない、軽い驚きに似た表情に変わっていく。それを見て、チョコは自分が悪いことを言ったのかと不安になった。

「失礼でしたでしょうか…」

「とんでもないわ。お願いしようとしてたところだから」

 堂々と、晴れやかな感謝の笑みでそう言われると、お節介にこぎつけた、もっとこのひとと一緒にいてみたいという思いが、何とも後気味の悪いものに感じてくる。

 恥ずかしくなって視線をそらしたと思っているのだろう。リトル・スノーは穏やかに微笑むと、優しくチョコに声をかけた。

「なら、出たところで少し待ってくれるかしら。今から手続きをするから」

「そういうことなら…」

 今からでも本を運ぶのを手伝うべきでは、と言おうとしたチョコの唇を、そっと白く潤った人差し指が遮る。

 一瞬見惚れた彫刻のような指が間近にあることに真っ赤になったチョコだが、女性はその反応も知らん顔をして悠々とした笑みを浮かべながら囁いた。

「けど、あのお婆さん、あなたのこと睨んでたから。あなたも、あのお婆さんが苦手みたいだから」

 分かられていたらしいと知り、今度は別の意味で赤くなる。確かに、とようやく頷くチョコに、リトル・スノーは微笑むと、何冊もある歴史書を重そうに抱えて視線を送る。

 その視線を受け止めると、カウンターまで慎重な足取りで本を運ぶリトル・スノーの後姿を見送った。

 老婆の声が聞こえてきて、逐一説明をしているらしい。気難しい顔をしていても、喋ることがあまり嫌いではないようだ。そのしわがれた、よく聞こえない言葉の節々に、女性の落ち着いた相槌が銀のリボンのように絡み付いている。

 聞き惚れてしまわないうちに、チョコはなるべく足音を立てないようにして図書館と名付けられた蔵から出る。埃っぽいが静かで少し涼しい蔵から出れば、外は目が眩みそうなくらい眩しい。

 けれどその蔵自体が住宅街の隅のほうに位置するせいか、外に出ても内部と同じくらいの静けさがある。とは言っても、耳をすませば誰かが昼の軽食の用意をしていたり、子どもたちの遊び声が聞こえていたりするし、品がないのは重々承知で鼻を利かせてみれば、どこからともなく甘い果実の香りがする。ジャムにでもするのだろうか、甘い香りは果実のみのものではなく、砂糖を含んだ甘さだ。

「ベリーの香りね。お菓子にでも使うのかしら」

 不意に上部から聞こえてくる声に、チョコは慌てて上を見る。細く白く柔らかい腕に、左右にしっかりと四冊ずつ本を抱えるリトル・スノーが、そこにはいた。

「お預かりします」

 短く言って、片方の四冊を丁寧に渡してもらう。案外リトル・スノーは分厚い本を運ぶことにでも手馴れているのか、バランスを崩すことなく、チョコが差し出した手に分厚い歴史書や辞書を渡していく。

「ありがとう」

 リトル・スノーがそう微笑むと、チョコも少し、大胆なことをする心持ちで微笑みを返す。チョコの少しぎこちない笑みは、しかしリトル・スノーには快く受け入れられたらしく、自然に二人はゆっくりと歩き出した。

 この白い女性の足取りは、軽いが静かだ。夜空を背景にこの人を見れば、まるでどんな踊り子ですらも降参の吐息を漏らすに違いないと思えるぐらい、その動作は美しく、どこか蝶や花が風に舞うさまを思い出す優雅さがある。けれどあくまで動きはゆったりとしており、それどころか可愛らしいと思ってしまうような仕草すら見せる。

 そこでチョコは気が付いた。見飽きないというか、リトル・スノーの動きに単調さがなく、舞うようだと思ってしまうのは、彼女が視界に移るものほとんどに興味を持ち、それを理解し覚えようとしているからだ。例えば屋根瓦の形や、住民の着ているもの。子どもの靴に屋台の全体像。量り売りのスコップに、女性たちの財布の形。

 それらを全て見て覚えようとし、そして同時に何故その形が定着しているのかを想像し、理解する。まるで生活様式からその地域の文化や思想を学び取ろうとしているように見え、気高い立場にいた人にしては、妙なことだと思ってしまう。しかし、それを滑稽だとは彼女は思わない。むしろ、気高い地位に在する人ほど、市井に興味を持つのは実にいい傾向だ。

 と、ここでチョコは軽く首を振った。もう既に、隣で楽しそうに市井を眺めている人は、この世に関係を持たないと決めたような人なのだ。現に今も、傍観する立場を決め込んで、身近にそれを見ているだけに過ぎない。微笑ましそうに、とても楽しそうに。――ほんの少し、寂しそうに。

 ならば何故、もう関係のない立場にいるはずなのに、それでもまだ学び取ろうとするのか。いつかこの知識と関係を結び、知恵として育まれる日がこの人に訪れる可能性があるのか。

 それを考えると、チョコは少し、胸が苦しくなる。

 自分だって、関係のない地域や立場の物事に、興味を示すきっかけさえあれば、知識を吸収しようとするだろう。いつしかその知識が知恵となり役立つ日を信じて。けれどこの人は、もう既にそんな日が来る可能性はほとんどない。死後の世界がどんなものかは分かりはしないが、それでも明るいものではないことぐらいは分かる。死後は終わりだ。再生かもしれないが、そこに新しい知識はない。ただ滅び、ただ跡形もないくらい腐敗していき、やっと新しいものが生まれるはずの世界。そこの住人でも、現世に現れ、新しい知識を身につけようとする。仕方がないのだ。そこに意識と心がある限り、興味を持たないものはなく、新鮮に感じないものはない。

 けれどそれが、自分のように生きている、まだ未来ある立場の者が沢山のものに興味を持つのではなく、――もう既に、この世界からリタイアした女性が、まるで赤ん坊のように万物に興味を持っている。何と言う皮肉。何と言う悲しみ。何と言うやりきれなさ。

「女王陛下は…」

「…名前でいいのよ?」

 さっきも言われた言葉で、ついついその笑顔に従ってしまったが、今はその極度の緊張もない。チョコは胸に本を抱えながら、軽く首を横に振る。

「わたしの故郷では、陛下だけは女王陛下と呼ぶようにと習いました」

 隣の女性が軽く目を見張るのが分かる。異界の魂信仰が活発的になってからは、寒国ルネージュの教育方針は一部ではあるものの、少々過激な思想が根付けられていた。とは言っても、それが人体や人生にあまり影響を与えるとは思えないものだから、他国からは問題視されていないのが実際のところである。――例外がつい最近あったのは、この際置いておこう。

 当然と言うべきか、それは教育ではなく宗教的思想だ。異界の魂その人が至高の存在であったと崇め立てる。真に世界を見た者。真に真理を見た者。真に真実を知った者。それが神ではなくて一体何と定義する、それが真理そのものではなくて一体何と定義する。強引に解釈すれば、そんな思想が国中に氾濫していた。

 しかしこれらは時代の流れから捉えれば、確かに納得出来るものでもあった。第一次大戦の切欠となった新生魔王軍の旗立は、当時弱小であった北国の民たちには大きな不安の種だった。しかしその不安の種を取り除くとはいかないまでも、国民たちに周囲が戦時中だと悟らないように気を配り、税も負担にさせず、徴兵すら大々的なものにしかなった女王は、それだけでも十分国に尽くした。そして地味な活動なりにも国民を慈しんだ女王が、戦後、実は異界の魂と呼ばれる、こことは違う世界で生きていた人間であることが判明し、国民は少なからず動揺した。神をも越える力を持ち、未来と真実を見通す力を持つ、儚い外観の美しい異界の魂。神そのものに近しい存在。そんな人が、自分たちの国を守ってくれた。

 その感動と驚きだけで済むのなら、あそこまで異界の魂信仰はルネージュに布教しなかっただろう。異界の魂その人が、実は望んでいたことの象徴とでも言うかのように、魔族と人間の血を引く娘が再び訪れた戦争を終結させなければ。

 女王リトル・スノーが人魔共存を目指していたと聞いて、当然元コリーア教の聖地と呼ばれたルネージュ国民はあまりいい気はしなかった。しかし、再び戦争が始まり、いつ終わるのかと不安に身を縮めながら戦争が終わってみれば、まるで自分たちの君主が求めていた理想の象徴が、大陸を治めているではないか――まるで、こうなることを予言していたように。

 それが一例として挙げられたが、実際に異界の魂リトル・スノーの伝説は、単なる武勇伝のような伝説ではなく、多くの実証の表記と証拠に基づいた上で伝えられる伝説が多かった。歴史書や思想の話にも出てくるほどの影響も、彼女のみが主張した話ではないがある。だからこそ、ルネージュ公国はその人を救世主として崇め立てたのだ。そして実証があるとなると、その布教性は高まっていく。シンバ帝国に命ぜられ太守となった男が失脚すると、ますます異界の魂信仰は根強くなっていった。

 勿論、それは異種族にも余波として現れる。元々、女王は全ての種族が共存できることを目指していたのだ。異界の魂信仰がほとんど国教となっていたルネージュは、当然魔族であれエルフであれ信仰を拒むことはない。それに、単なる異種族だけならともかく、チョコとバニラの両親は神官だ。現在ルネージュを統治する役職に就いているのはやはり神官であるため、異界の魂信仰と、彼女たちの家庭との関係は根強い。

「・・・・それは、わたしが嬉しくないから止めてと言ったら、あなたは止めてくれるのかしら」

 初めて見せたリトル・スノーのよくない顔つきに、チョコはほとんど必死になって目を合わせる。

「おいやなのですか?」

 青玉のような力強い眼差しに、リトル・スノーは少し躊躇った様子を見せていながらも、それでも控えめに頷く。

「もう、わたしは女王ではないから…。今もそう呼ばれるのは、少し、昔を思い出して、ね・・・・・」

 そう曖昧に呟く姿に、チョコは思わず俯いてしまう。ルネージュ国民の義務として強要されたことではなく、この美しく優しい人にとって自国の女王の地位は苦痛だったのかと思ってしまうと、少し悲しいものがあった。

「・・・・陛下にとって・・・・そんなに女王の立場であったことは、辛いことだったのでしょうか」

「いいえ」

 きっぱりと、リトル・スノーは首を振る。
「けれど、楽しいだけじゃなかったし、逃げ出したいことも多かったわ。その分、報われたものも当然あったから…それが単純に嫌だったわけでもないの。今から見て、あれは、わたしが既に通過したものの名前だから」

「通過、ですか?」

 チョコは首を傾げてそう訊ねる。自分自身も、しっかりと本を落とさないように注意しながら。

「ええ、通過。――あなたは、今どんな立場についているの?」

「立場…?」

「そう。職業と言ってもいいのかしら。今は、何て呼ばれるのが一番適切だと思う?」

「…高等生、でしょうか…。勇者育成学部の」

「なら、その前は?」

「・・・・・中等生」

「その前は?」

 どうして自分の方が質問されているのだろうかと少し不可解な気持ちではあったものの、チョコはヴァラノワールに入る以前の自分たちを思い出す。

 四年前以降となると、社会からは自分たちに立場など与えられていなかった。与えられていたとしたら、神官である両親の子どもとしてしか見られていないだろう。可愛いねと言われ、あら珍しいと言われ、けれど自分たちがどんな性格なのか、どんなことが好きで、どんなことが嫌いで、どんなことが得意なのかも教える必要もなく、問われることもなかった。ただの子どもだ。双子の。ハーフエルフの。

 そしてその虚しさを思い出すと、ふと、隣にいる女性の言いたいことが分かった。

「・・・・・・・子どもです。何の力もなく、説明もいらない。ただ、親が神官であるというだけの」

「そう。今は、そう思われることはいや?」

「はい…。つまり、スノーさまも、そうなんですか?」

 そして豊かな白銀の髪のその人は、ただ笑みも浮かべずに頷いた。むしろ、少し辛そうに。

「それは確かに、他の人にとってみれば名誉かもしれないし、そうあってほしいと望まれるかもしれない。けれど、わたしにとってそれは、大切に心の中に置いておきたい過去のことなの。触れることは別に構わないわ。ただ、今に持ち出されたくない過去だから…」

 それを聞いて、チョコは少し安心した。女王は、女王であった過去を否定したいわけではない。むしろ、大切にしておきたい。ただ、大切な思い出と経験を時間差もないと一緒くたにされるされることは、あまりいい気持ちではないということ。もっとはっきり言えば、過去と現在の分別をつけてほしいことであるということ。

「畏まりました。…ご不快にさせてしまって申し訳ございませんでした、スノーさま」

「いいの。こちらこそ、わがままを通してごめんなさいね」

 いいえ、とチョコは晴れやかに笑う。むしろ、そうはっきりと素直に言ってもらったほうが、こちらの気持ちもはっきりと素直に伝えやすい。礼儀のある会話の中にも、自分の気持ちは包み隠すつもりはないという真摯な態度が感じ取れて、チョコは嬉しかった。

「スノーさまは、歴史を辿るのがお好きなのでしょうか」

 そうして、自分なりに素朴に感じた質問を投げかけてみる。チョコの腕とリトル・スノーの腕に抱かれた分厚い歴史書は、多く記述内容が重複するところばかりだと言うのに何冊もある。事実として起こった事象を書くだけのことなど、著者の個性や思想などはあまり見出せるものではないと思うのに、何故同じような年代の歴史書を借りるのか。そのことが不思議に思ったチョコである。

 それに、リトル・スノーは少し笑む。

「そうね。好きと言えば好きだけど、他にもそれ以上にたくさん、好きなことはあるわ」

 つまり、特に好むことではないということか。ならどうしてと、更に不思議に思いリトル・スノーを見ると、彼女の表情をどう受け止めたのか、女性は鈴が転がるような声で笑った。

「特に、大した理由があるわけじゃないの。ただ、ここ十年のことを、とにかく多方面からよく知りたいだけ」

「・・・・・なぜでしょう?」

「無知でいたくないもの。流行はすぐに廃れてしまうけど、十年近く経って定着した知識や文化や常識があるのなら、それを知っておいて損はないでしょう?」

 しかし、それが活かされることは、この先にあるのだろうか。

 そんな不安と悲しみを感じながら、けれど自然に振舞う美しい女性に、チョコは笑顔を浮かべる。なるべく明るく感じられるように。なるべく、何も考えてなんかいないように。

「はい。戦争がないと、確かに知識や文化の巡りは早くなりますから、新しい知識や文化は滞っていた分、急速に増えます」

 我ながら、完璧な笑顔を造れたと安心するチョコに、まるで笑みを返すようにリトル・スノーが微笑む。初めて見たときから目を奪われる清らかさを持つ、とても儚く優しげな微笑だった。

 それから二人は静かに歩く。たまに、屋台の売り物を一つたりとも忘れまいとするように集中して見ているリトル・スノーの質問に、チョコが打てば響くように答える以外は、雑談らしい雑談はない。けれど、空気は和やかなままだ。

 大きな緑色の果実の木がある家を通り、橋を渡れば目の前に宿がある。本来ならば丁寧に砂利で舗装された道を辿らずとも、町のシンボルである噴水から真っ直ぐに、少し他の家の庭に侵入しつつも歩いていけば近道となるのだが、生憎女性のほうはスリットがあるものの細身のロングスカートである。柵を越えるなどの大きな動きには適した格好ではない。それに、もしチョコがそちらを勧めたとしても、屋台や手押し車に興味のあるリトル・スノーならば、丁重に断る可能性が高い。

 小さく吐息をついたチョコの頭上に、リトル・スノーの笑い声が振ってくる。

「疲れたかしら?」

「いえ。こちらが無理を通させていただいたものですから、そんなことは…」

 実際、チョコが思わず吐いた吐息は疲れからのものではなかった。緊張からでもなかった。ただ、リトル・スノーの抱える悲劇性に気付いていないように、上手くやり過ごしたと安心しただけだ。

 相変わらず、リトル・スノーの笑みは穏やかで静かに明るく、それどころか、こちらを純粋に心配するような目すらしている。

「そう?けど、あと少しだからと思って、あまり無理はしないでね」

「はい」

 穏やかな言葉に、チョコは心の奥が痛むのを感じながらも微笑み返す。

 静かな足取りで橋を渡り、宿屋の前にまで来ると、リトル・スノーは少し笑った。

「本当に、手伝ってくれてありがとう。おかげで随分助かったわ」

「そんな…わたしはただ、出来ることをしたまでですから。こちらこそ、ご迷惑ではなかったでしょうか?」

「とんでもないわ。あなたがいなかったら、わたし一人であの距離を往復しなきゃいけなかったかもしれないもの」

 ローレンボフはあまり大きな町ではないが、確かに重い本を持って往復を一人で行うとなると少し辛いかもしれない。そう考え、チョコはそのことについては素直に感謝を受け止めた。

 器用に本を持ったままの状態でドアを開けると、リトル・スノーが先に入るように彼女に促す。

「付き合せてしまって悪いけど、わたしの部屋まで運んでくれないかしら」

「分かりました」

 確かに階段を上るのは少し疲れるかもしれないが、この程度なら何とかなる。そう思い、先に入って静かなカウンターを通り階段を上ると、チョコは後ろを振り返った。慎重に本を持ちながら階段を上がる、淡く輝く髪が眩しいひとが、ゆっくりと近づいてくる。

「お部屋はどちらですか?」

「一番奥の部屋なの。鍵は開けて出たから、そのまま入ってくれて構わないわ」

「え・・・・」

 あまりにも無防備な言葉に、チョコは一瞬立ち止まった。この宿に泊まっているのは自分たちとこの女性だけであることは知っているし、別段、一行の男性陣に疑わしい人格者がいるわけでもない。

 それでも大人の男女であれば、プライベートが重視されるため、当然部屋割りは固定されており、鍵がかかっていても仕方がない。毎日のように部屋割りを変える在学生や元学生たちの部屋は、いつでも移動ができるようにと荷物をまとめており、同時に男女の差と礼儀は自己の判断に任せているが監視の目があるため、さすがに大それた真似をするような人はいない。

 しかし、それでも、この人が相手となると、一瞬でも血迷ってしまう人がいるかもしれないと不安で仕方がないチョコではあったが、身内の恥の予想など言うものではない。ただ黙って、少し不思議そうな顔をしているリトル・スノーについて行った。

 ドアノブが開く瞬間、自分の鼓動が高まっているのを感じたチョコではあったが、ありがたいことにそれは杞憂となった。

 一番奥のその部屋は、彼女たちが泊まってる部屋よりも広かった。それどころか、教官たちの部屋よりも広いのに、一人部屋となっている。しかし、宿のレベルも関係してか、その部屋は広いだけの、殺風景な印象すらある部屋だった。

 家具は寝台と、机と、椅子とランプ。寝台の近くにあるチェストと、小さな箪笥が一つ。一ヶ月の滞在にしては、あまり整っているとは言えない。チョコの知る限り、教官の知り合いらしい銃使いの男性は、机の上だけでも細かい器械や何かの道具でいっぱいになっており、一週間も経たないうちにその人の自室のような有様になっていたと言うのに、この部屋はまるでその気がないようだ。

 しかし、窓際に飾ってある白い花の一輪挿しを見て、そうではないかもしれないと、チョコは考えを改めた。何せこの女性が滞在して、まだ三日ほどしか経っていない。そんな時点で、リトル・スノーがこの部屋を自分の城のようにするような性格とは思えないし、それにこの人の場合、自分が気持ちよく滞在できるように、ほんの少し手を加えるだけで満足しそうな気がする。

 質素な勉強机のような机の上には、昨日ミュウたちと揃えたのであろう、どっしりとしたインクや鷲の羽根のような模様の付いた羽ペンと銀色のスタンド、硝子の文鎮と、真っ白な羊毛紙に記述具入れらしいシンプルな木箱。ランプ用のものらしい蝋燭は、まだ使われていないランプにそっと寄り添っている。実務的だが少し古い記述具が揃っていると、そこだけ優雅な賑わいを見せているようにも感じ、その分、殺風景な部屋全体の印象が寂しさを増す。

「ベッドに置いてくれればいいから…」

 窓を閉めていて空気が篭っているせいか、自身の持っていた本は机の上に置くと、リトル・スノーは窓を開けに向かう。

 チョコは言われたとおりに寝台の足元の当りに本を運ぶと、チェストの上に何か置いてあることに気が付いた。銀で出来ている、小さなグラスだ。水を注いでもほんの一口分くらいしか飲むことが出来ないような小ささの、実用性があまり感じられない一品である。

 目的がいまいち分からないが、何かが彫られているように見える。そう思い近くで見ようとしたが、それより先にリトル・スノーが振り向く。

「ありがとう。本当に助かったわ」

 そう言われると、さすがにそれを無視して小さなグラスに近づくなど出来なくなる。チェストの方へと向いていた足を反転させて、深々と礼をした。

「こちらこそ、急な申し出を受け付けていただいて、ありがとうございます」

 本心からの言葉であったが、リトル・スノーは小さく目を見張ると、それから可笑しそうに口元を緩めた。

「そこまで畏まることはないわ。ただ本当に、ありがたかったことだから」

「ですけど・・・・・」

 まだ言いよどむチョコに、リトル・スノーがそっと近づいてくる。その足取りは相変わらず優雅であったが、有無を言わせない早さがあった。

「ありがとう」

 そして、チョコは驚いた。

 その白く華奢く、先ほどまで本が抱かれていたはずの腕に、今は自分の頭が抱かれていることに気が付いて。そして次の瞬間、頬とは言わずチョコの顔が一気に真っ赤になる。

「え、っあ、あの、スノーさま!?

「どうかした?」

 抱いたままの体勢でそう訊ねてくるリトル・スノーに、一瞬チョコは本気で心臓が飛び上がったような気がした。

 まだ未熟な果実のような、しかしほんのりと甘い香りのする、優しい風に似た吐息が髪に軽く絡まる。それだけで、この人の中に潜んでいた魅惑的な空気が現れ出たように感じた。

 不思議なことだ。今までは、触れるほど近くにいても、確かに緊張したり見惚れそうになったりはしたが、ここまでこの美しい人が妖しいとも思ったことはない。そして抱かれているうちに、自分の緊張が少しずつ解きほぐされていくのを感じた。

 しっとりとした質感の、ミルク色のしなやかな手が撫でるように自分の頭を包む。それはまるで、何も考えずただ母の胸の中で甘えていただけでよかった頃の再現を誘う。

 甘く濃く、少しの淫奔さを引き出すような女性の体臭が体の奥の熱を煽る。それはまるで、いつかの空気に溶け込んでしまいたくて、ただ無性にはしゃいでいた頃と同じ気持ち。

 頭や肩に触れた肌から、仄かな熱を感じる。過去と未来はどうあれ、この人は今は生きているものなのだと実感させる。光に誘惑される蛾のように、自分の体に意思がなくなっていくのを感じる。自分の鼓動の音は聞こえない。そんなものより、ただこの人の持つものを感じ取りたいという思いが強くなる。そして本能で、この人に肩を委ねたくなっていく。

「・・・・ぇ・・・・・・よ」

 声は聞こえているのかどうかも分からない。ただ、微かに、単純に心地良い音が聞こえるだけで、それがどんなことを言っているのかすら分からない。

 浮遊していく感覚。初めて観光として存在する、温かい海に飛び込んだときと同じ。ただ、身を任せることだけが気持ちよかったときと同じ。何も考えず、何の力も必要なく。それでいいのだと納得してしまう。そのままで、ずっとこのままでいいのだと、頭の奥底から声がする。一番危険を察知するはずの箇所がそんなことを言い出すのだ。ならば彼女はそれに従うほかにない。

 肩の力が、膝の力が、まるで紐が解けるかのように抜けていくのが分かる。それはとても心地良い。眠りに入る瞬間のように。ゆるりとした、体の全神経が溶けていくような気持ちよさ。

 惰眠を貪るように、けれどそれとは違い、飽きるという可能性すら感じない心地良さ。何もかも忘れ、考えず、ただ知的である必要性なども感じさせないくらいの―――

「駄目」

 その声は叫んでもいないのに、急に凛とした響きを持って、彼女の意思そのものを復活させた。

「・・・・え?」

 ふと我に返った彼女が、その声を発した女性を見ると、その青い瞳は恐ろしいまでに澄んでいた。

 それは今まで見てきたリトル・スノーの表情のどれとも違う。まるで彼女の脳髄そのものに訴えていたかのような、純粋な魔力を含んだ真剣な瞳だった。

 肉体に魔力を集中させ、それにより既存の人体のものとは違うものにさせることは可能とされている。一言で言ってしまえば魔力による強化だが、大抵は第三者から見ても変化が分かるほど魔力を籠める必要などない。それは強化と言うより変化であり、同時に肉体の一部を変化させることは今の魔法使いたちには至難の業である。肉体も強化する必要がある上に、それはとても高度な方法でもあるからだ。

 そしてチョコをひたと見つめるリトル・スノーは、当然のようにその変化を行っていた。穏やかで鮮やかで、このひとの白銀の髪によく似合う美しい青い瞳は、硬質な、透度の高い青に変わっている。

 その瞳には何の感情もないように感じ取れた。むしろ、その目に入った彼女の思考や感情の全てを、一つ残さず無慈悲に読み取ろうとしているようにすら感じられる。チョコの人格を形成する全てのものを読み取り、吸収し、消化するように。

 自分の感情、思考、思い出、過去のあった出来事とそれを彼女自身がどう捉えたかということの全てを、ただ恐ろしく澄んだ瞳に読まれてしまう。言葉にできない大切なことも、思い出したくないことも、自分の中で不可侵であった想いですらも。その瞳には隠すことも逃れることもできないのではないのかと言うほど、絶対的な力を持った視線で。

 チョコは今まで自分が抱かれ、そしてこの身を委ねようとした人に、今度は恐怖を感じた。自分の知らない、理解できない生き物が、今目の前にいるのだと思い知らされる。それは神と言うよりも、化け物と言ったほうが適切だと思うぐらいの圧倒的で純粋な魔力を感じさせて。

 そして彼女が思わず身震いをして、無意識に一歩後退した瞬間、リトル・スノーの瞳の色は、チョコが知るものに変わっていた。まるで、目の錯覚ではないかと思うぐらい素早く、自然に。

「疲れているみたいね。こんなところで寝そうになられたら、少し困るわ」

 リトル・スノーが悪戯っぽく笑うと、チョコは再び赤くなった。確かに、眠りに入る前の心地良さが体中に感じられたが、実際に眠りそうになっていたとは思わなかった。それは確かにリトル・スノーがはっきりと声を出すほどだめなことだ。人の腕の中で眠るなんて、幼児でないと許されないことである。

 素早く体を引き離して、ぎこちないながらもお辞儀をする。人の腕の中で眠りそうになったなんて、この年では考えられないことだが、実際あの浮遊感がまだ体に残っており、ついでに言えばどことなく体が熱を持ってだるくなっているということは、つまりそういうことなのだろう。

「も、申し訳ありませんでした・・・・」

 赤くなりながらも拙く謝る様子は、いかにも必死に見えたのだろう。またリトル・スノーが愉快そうに笑う。

「そこまで悪いことじゃないとは思うけど、一応ね」

「は、はい…」

 一応ね、の後の意味が極度の緊張と恥ずかしさの影響でよく分からなかったが、まあとにかくニュアンスとして伝わらないことはない。

 こくこくと彼女が頷くと、リトル・スノーが少し近づいてチョコに触れようとする。

 ――瞬間的に、ついさっき感じた恐怖を思い出してしまって軽く身を竦める。けれど、彼女自身は具体的に、その恐怖を感じた理由を覚えていなかった。何故怖かったのか。こんなにきれいで優しい人を目の前にして、どこに脅える必要性があるのだろうか。こんなにうっとりとするほど青い瞳を持つ人を怖がる理由なんて、今の彼女には思いつきもしない。

 リトル・スノーは苦笑を穏やかに苦笑を浮かべ、それからかチョコの眼前の寝台に座る。目線が逆転したことで、俯く彼女の視界に入る美しい青い瞳に、心なし身構えていたチョコはふと体の力を抜いた。

「さっき言ったこと、聞いてたのかしら」

「はい?」

 きょとんとしてリトル・スノーを見返すと、女性は軽く笑った。

「そんなに眠かったの?いつも夜更かしでもしてるのかしら」

「あ・・・・・・」

 そうして思い出す。確か、この女性の腕の中で夢うつつの状態になっていたときに、声を聞いた。生憎、あまりにも気持ちよすぎてまともに聞こうとすら思っていなかったが。

「も、申し訳ありません…。あの、わたし、今日、本当に調子が悪いのかもしれません…」

「なら、あんまり引き止めるのはよくないわね。一応、さっき言ったことだけど、もう一度言うわね」

「はい…お手数おかけします…」

 ある意味、自分が知る姉が起こした失態以上の失態を重ねてきたように思いながらしおらしくしていると、リトル・スノーの美しいがその分すぐ強い音に掻き消されてしまいそうな声が耳に届いてきた。

「気を使ってくれることは嬉しかったわ。けど、あまり無理をするのはよくないことだから…。わたしはね…自分が良かれと思って見過ごすのは、別に悪いことじゃないと思うの。けど、あなたが悲しくなるほど想ってくれるなら、傷つけるかもしれない、衝突するかもしれないと思っても、言ってくれていいの」

 弾かれたように、チョコは眼前の女性を見た。

 相変わらずの笑顔で、その笑みは相変わらず美しくて、――何より、心をこちらに委ねてしまいそうな静かで穏やかな、けれどどことなく無性に甘えたくなるような魅力がある。

 そんな笑みを浮かべながら、リトル・スノーは微笑むと、音も立てずに立ち上がり、ドアの方まで歩いていった。

「引き止めてごめんなさいね。手伝ってくれて、本当にありがとう」

 そうして、ドアを開ける。チョコを帰すように促す行動と言葉から、最早彼女に発言権はないように感じられた。

 そしてチョコは、内心は愕然としている気持ちで、真っ白な女性を見ていた。真実を見通すことのできると、過去に故郷で聞いたことがある。その影響で、読心術も得意なのかもしれないが、それにしたってその言葉は不意打ちだ。

 ――自分が同情していることを、憐れんでいることを、無礼だと言ってくれれば、こちらも少しはショックを受けただろうが、それでも乗り切れるはずなのに。なんでそんなに優しく、自分に非がないとは言わないのだろう。自分の心が、一番自己嫌悪で締め付けられるようなものの言い方で。

 チョコは、何か言いかけて、それから言うのを止めた。

 何か言おうとしても、その言葉は本当に自分の心を明らかにしてくれるのかどうかも分からない。それどころか、自己嫌悪のせいでリトル・スノーをわざと傷つけるようなことを言ってしまうかもしれない。そんなことはしたくない。けれど、それ以外の言葉なんて、すぐに出てきそうな言葉なんて、今自分の混線を極めた思考回路の中で、どんなものがあると言うのだ?

 棒立ちのチョコに、またもリトル・スノーが近づいてくる。混乱しきった思考に、ただ彼女は落ち着いてと頼むことしか出来ない。だから、女性が近づいてきたことなんて、彼女の中では大したことがない刺激だった。

「言ってもいいのよ」

 けれどその一言ですら、彼女の心の鍵を解くことは出来なかった。あまりにも穏やかな笑みと言葉は、彼女と今まで経験してきた苦渋の差を感じさせる。自分がどうこう言ったところで、その言葉と思いが、眼前の女性に届くことなんてありえるのだろうかと億劫する気持ちが、彼女の中で強くあった。

「・・・・お姉さんが呼んでいるわ。早く行ってあげなさい」

 そして、先ほどと同じくらい穏やかな声でそう告げるリトル・スノーを見ると、チョコは何とか言葉を探りながらもドアの方へと歩き出す。相変わらず頭の中は錯乱していて、まともに一言で言えることがない。どれもこれも、多くの言葉を要するものばかりだった。――けれど、一つだけ、確かなことがある。

 深く礼をすると、少し寂しげな笑みを浮かべているリトル・スノーに、チョコは真摯な目を向けた。

「・・・・わたしは、スノーさまに何があったのかは、歴史書以外のことではよく分かりません」

 実際、ルネージュ国民と他国民でリトル・スノーに関する知識の差など大したことはない。人柄が分かるような逸話を詳しく伝えるのがルネージュ国民で、ただ人柄を情報として知るのが他国民であるという話だ。

「けれど、スノーさまは、とても立派な方だと思います。歴史書に書かれていることもそうですけれど…今お話しさせてもらっているスノーさまは、特に、立派な方だと思っています」

 それだけ言うと、もう一度チョコは頭を下げ、それから女性の部屋から退出する。

 廊下を小走りで通り、階段を下りる彼女の可愛らしい後ろ姿を見ながら、リトル・スノーはふと微笑んだ。

「・・・・・・そう」

 ドアを閉める。

 その白い手は、美しかった。誰もが一瞬でも目を奪われるに違いないと思わせるほど、美しく華奢くなめらかで、大理石の彫刻の原型ではないかと思うほど。

「あなたは凄いのね・・・・」

 その優しい声は、美しかった。誰もが一瞬でも聞き惚れてしまうに違いないと思わせるほど、美しく華奢くたおやかで、水晶の鈴の音ではないかと思うほど。

「・・・・こんなわたしをまだ尊敬できるの」

 その笑顔は、美しかった。誰もが一瞬でも心を動かすに違いないと思わせるほど、美しく華奢く優しげで、――泣き笑いにも似たような、けれどどこか絶望的なものを孕んだ――まさしく慈愛の女神ではないかと思うほど。

 

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