Delphinium

 

 二人がその女性について知ることは確実に一つだけある。

 朝が妙に早いということ。ただそれだけだ。

 どれほど早いかと言うと、二人が朝日が昇る頃に朝食前の腹ごしらえ兼目覚めの鍛錬をするために部屋を出るときに、もう既にロビーのソファでくつろいでいる姿を毎朝見るほど早い。

 そしてロビーの向こうにしか宿の出入り口はないため、当然ながら二人はいつもリトル・スノーに朝の挨拶をすることになる。別に彼らが進んで行うのではなく、リトル・スノーが律儀に彼らを見かけると、そのたびに挨拶をするため、当然挨拶を返すだけなのだが。

 特に、エンオウの方はそうでもないが、空夜はその点は律儀だった。ムロマチには挨拶についての絶対的な習慣があるのかとエンオウが怪しむほど、空夜は律儀にリトル・スノーに対し礼をするのだ。

 しかし、そんなことを彼は相棒に訊ねるつもりはなかったし、空夜のほうもそれが訊ねられるほど奇妙なことだとは取っていない。

 そしてリトル・スノー滞在から五日目の朝、彼らは小さな違和感に囚われた。いつもの時間に目覚め、着替え、相棒も準備が出来たことを確認すると、そのまま階段を下りて宿を出、街外れの森に向かう。

 しかし、その日は何故か、ロビーのソファに女性はいなかった。別に悪いことではないが、少し身構えてその挨拶を受けていた二人は、その状況にほんの少し驚いた。

「ほう。珍しい」

 エンオウは何かが起きても大きな反応は取らないように努めているが、空夜のほうは逆に自分の感情には素直に従う。故に格闘家は無言で階段を下りていくが、侍のほうは軽く周囲を見回しながらのんびりと呟いた。

「あのお人にも時間の狂いなどあるのだな。自らで決めたことは確実に守る人と思っていたが」

 相手にも事情があればそうなるだろう、とエンオウは相棒に視線をやる。それに気づいているのか、それとも無視しているのか、空夜は誰もいないロビーを見ながら呟き続ける。

「それとも何らかの事情でもおありか?しかし、このような時間に何かの都合はあるとは思えんしなあ…」

 背後でそんな独り言を聞かされても、エンオウはあまり面白いとは思えなかった。何よりかの女性は美しい。美しい分、近寄り難い印象があり、自分たちのいる世界とは無縁の種類のように見えた。彼がこの大所帯に同行していながら、学園時代から一度も口を利いたことがないような、回復魔法を使う少女たちや神官と名乗る女性たちと一緒にいるほうが自然であり、自分たちに声をかけることは不自然だと思っていた。それと同時に、鬱陶しいとも感じていた。

「行くぞ」

「うむ」

 相槌聞いた彼の耳に、もう一つ、予測していたもの以外の音が聞こえてきた。ベルの付いたドアを開ける、重い音と妙な軽快さを持つベルの音色が同時に彼らの耳に入る。

 視線をそちらに向けた二人に少し驚いたらしい。あの白銀の髪を黄金の陽光により更に輝かせながら、リトル・スノーが入ってきた。

 その眩しさに思わず顔をしかめるエンオウとは違い、空夜はほう、と隣の彼にしか聞こえないような感嘆の声を出す。相棒が光物が好きだとは思わなかったエンオウだが、それは無駄な知識に等しい。早く鍛錬に行くべきと歩き出そうとしたが、空夜は気にせずリトル・スノーに声をかけた。

「まさにお早いようで」

 そう言われると、彼女も微笑んで挨拶を返す。

「おはよう。あなたたちも十分早い気がするけれど、違うのかしら」

「拙者らは鍛錬のためという目的があってこそ。お手前のように朝日が昇るさまを見るべしとして散歩に出るという、優雅な趣味とは程遠いものです」

 そう言われて、リトル・スノーは少し驚いたようだった。空夜が彼女の早朝に起きる理由を言い当てたからだろうが、自分が今帰ってきたことにより、空夜が言い当てたことが分かったのだろう。軽く笑みながらもドアを閉めた。

「雅と言われるほどのことではないと思うわ。ただ、それが好きなだけだもの」

「しかし、落陽を見る趣味よりも…ふむ、何というか珍しい気が致します。何より落陽は労せず見れるが、日の出を見るとなると少々眠る時間を削らねばならぬ」

「それは優雅なことかしら?」

「少なくとも、眠りよりも朝日を取ることは雅と言えましょう」

「ならあなたたちも十分に立派だわ。睡眠よりも自己の極みを取るのだから」

 そう微笑みながら返されて、空夜は少し目を見張り、軽く礼をした。そういう返しをされると予想していなかったらしいが、それこそ風流というものに全く関心のないエンオウにとっては、聞かされているだけで喜ばしいことではない。むしろ、今の会話はこれからの彼の一生に全く貢献しないだろうと、この瞬間彼は心の中で高々に宣言した。

 しかし、彼女はエンオウの表情のほうに関心を持ったらしい。いかにも不満げだと判断したらしく、そっと眉を悲しげに寄せる。それから、空夜のほうに向かい合い、軽く礼をした。

「引き止めてしまったようね。ごめんなさい」

「いえ。先に声を掛けたのはこちら。お気になされるな」

 頼もしく笑む空夜に、心なしか表情を和らげたリトル・スノーではあるが、それでも責任は感じたらしい。態度を崩さず、ドアを開けて二人に出るよう促そうとする。

 しかし女性にそのようなことはさせまいと空夜が素早くドアノブを持ち、背後にいるエンオウに視線を投げかける。片や美しく、人に対し繊細な配慮を為す女性と、片や純粋に自己鍛錬を追及しつつも社交性は失われていない同輩。その両方の全く控えるつもりがないらしい視線に対し平然とできるほど、エンオウは自らの精神的な強さを自覚していなかった。

 目に見えて焦るようなことはしないが、それでもいつもより若干素早い動作で空夜の後に続く。女性は控えめな微笑みを目元に宿し二人を見送り、その視線に対し少々複雑な気持ちになりながらもエンオウは扉を閉めた。

 外は相変わらず静かで、鳥の声がたまに聞こえる。空気は澄んで仄かに冷たく、空は淡い金色とほんの少しの水色に、雲は白ではなく鮮やかな朱色という、普段とは違った色彩を見せていた。森のほうから朝露の冷気を感じ、二人はその空気を自らの肺に溜め、自分の思考を徐々に鋭いものに切り替えていく。それはただの金属のような硬質さだけではなく、柔軟でどんなものにも対応でき、けれど芯の通った冷静さと脳髄ごと新しくしたような新鮮さを持って。

 黙々と森を目指す二人ではあったが、今日はやはり何かが違うらしい。空夜がまたしてもその沈黙を破った。

「あのお人に見送られるのは悪いことではないな」

 どうでもいい。そう呟くように、聞かされているエンオウは歩き続ける。靴は仄かに朝露を吸い込み、ひんやりとしている。

「懐かしい気持ちを思い出す。他者に励まされるのは気分の悪いことではないが、それにしてもあの感覚は実に久しい」

 しみじみとした物言いは、実際彼が純粋に思っていることなのだろう。しかし、それによって導き出される答えを充分に予想できるエンオウは、穏やかな気持ちになどなれそうにもなかった。

 その呟きは自動的に思い出させる――綺麗な髪、しゃぼんのいい香り、眩しくて暖かい日差し、頭を撫でられる感触。懐かしくて、同時に酷く自分が弱く小さく感じさせられたもの。

「ふむ…母上か。思い出した。あの感覚は、母上の行いそのものだ」

 やはりか。

 今までほとんど顔を動かさないように努めてきたエンオウが、小さく舌打ちをする。それはわざと言っているのか。狙っているような気もするし、実際自分のことなど何も考えていない気分で言っているような気もする。どちらにせよ予想は付かない。空夜はそういう相手だ。

 そして、エンオウはそれについて特に言及すまいと自分を律する。そこで隙を見せてしまえば自分の負けだ。否、相手は勝負が始まったなどと思ってもいないようだが、彼からすれば自分の最も繊細な部分に触れられているようにしか感じられなかった。そしてそこを突かれれば、たちまち自分は守りを崩す。そんな醜態は見せまい。

 そしてそんな気構えのエンオウを全く気にする様子もなく、空夜は少し懐かしそうに口元を緩める。

「男にとって初めてのひとは母とは言うが、先人はよくぞそれに気づいたものだ。思えば、拙者も充分そうであった」

 エンオウは更に自覚があった。父がいないと、自然に母との距離は普通の家庭よりも縮まる。そして早いうちから、自分が頼りにならない父に代わって母を守るんだと、そのために強くなるんだと心に決めた。その思いが、ただひたすらに強さを求めるだけになったのはいつの頃だったか。

「当時は何故もああ、母たるものは弱いのかと思っていたが、それこそが子どもの愚かしさたる所以。男は仙人にでもならねばあのような忍耐は身に付かぬ。主は知っているか?仙人、つまり神のような人間になるためには…」

「数ヶ月前に聞いた」

「ほう。そうか」

 ならば良し、と空夜は深く頷く。が、エンオウには何故納得するのかが分からない上に、眼前の同級生は何に対し深く納得しているのかすらよく分からない。

「…まあ、似ていると、思ったということだ。母上はあのお人ほど器量は良くはないが、それでもよく似ている。ああやって…、」

 そう言いかけて、空夜はそっと目を細める。少し眩しそうなその表情は、母との思い出を鮮明に脳裏に描き出しているのだろう。ふと笑んだ口元が何かを表しそうになるが、それも一瞬止まる。しかし独り言ではないことを思い出してか、再びぎこちなく動き出す。そこには彼らしくもなく、恐々と思い出に触れるような慎重さがあった。

「そう…何と言うのか。気を遣い過ぎるのだろう。自分の楽しみより他者の都合を一も二もなく優先させて、こちらが少し寂しくなるほど控えてしまう。…他にも思い出ならばあるはずだが、…いかんな」

 空夜が軽く吐いたため息には、どことなく、彼も覚えがあった。感情のみが先走り、ただただ楽しかったし、甘えることが気持ちよかった時代を思い出す。その過去は、春の日向を体全体に浴びるような心地の良さを持っていた。――だが、それは今は遠い。だからこそ、楽しすぎた思い出故に浸りたくないし見たくない。夢のような過去のときは、現実に持ってくることすら憚られる。

「言い表すことを避けるようだ」

 苦笑を向けるその気持ちは分からなくはない。それが誰かに向ける言葉であれ、いくら一時的なものとは言え、外に出して風化されることが、自分の心の中で表現されたものとして置き換えてしまうことが、少し恐い。

「思い出を無理に引き出す必要はない。言葉に出来ないぐらい、気にするようなことじゃないだろう」

 彼にしては珍しい発言に、聞かされた相棒は少し目を丸くした。そんな慰めに近い言葉など、棘は取れたが故意に寡黙ぶる男には実に珍しいことなのだ。

 それでも彼なりの気遣いに空夜は深く頷くと、刺青のない方の肩を軽く叩いた。そして、彼はそんな相棒の珍しい所業に自分の悪戯心が疼くのを感じた。

「その心遣い感謝する。…否、拙者の言葉はついでかな?主もそういう気持ちであったと言うならばこの礼は取り消したほうがいいかもしれぬが…」

 にやついた口元で礼を言われても、エンオウの方はちっとも嬉しくない。それどころか、不意にらしくないことを言ってしまった自分を悔やみ、そしてあざとくも反応した相棒に羞恥に近い怒りを向けながら向き直る。そしてすぐさま拳を構えた。

「今日は少々荒く行く。気をつけろ」

 荒々しい闘気を剥き出しにしてそう呟く相棒に、そうさせてしまった自分の言葉に少し反省しながらも、空夜は喉の奥で笑う。

「相分かった。怪我せぬ程度にお願い致す」

「知るか!」

 怒号と共に喉を狙った一撃を木刀で受け流すと、空夜はすぐさま大きく後ろに跳ぶ。

 頭の中はこの虎の怒りをどう静めるかということに切り替わり、既に母への感傷など余韻もない。しかし何年も思い出さなかったことに感傷を覚えた自己への厚かましさには、少し、苦笑に近いものが浮かんだ。

 

 

 少年は、自分の心臓が確実に早鐘を打っていることを知りつつも、しっかりと前を見据えた。

 少年が立ち竦んでいる廊下を通り、玄関近くから二階に上がる階段があるロビーでは、ここ数日、決まってあの女性が本を読んでいた。昼の陽光が射す窓からの光をふんだんに浴び、分厚い歴史書を静かに読むその女性は、少し見るだけでも綺麗だった。生まれて初めて見た雪原のような、極めて真白に近い銀の髪が、暖かな黄金色を受けて神秘的な光りを放つ。それを一瞬見るだけで、そこに女神が現れたかのような高揚感が、少年の胸に湧き上がっていた。

 しかし、その女神は何の役目を担うことになるのか。それを考えただけで、少年の心は高揚感とは違う、暗い影に似た罪悪感が浮かび上がってくる。

 もしかして、自分のせいかもしれない。自分の責任かもしれない。彼を呼び出してしまったから。間違えて、彼をここに呼んでしまったから。それも不完全な状態で。彼が望んでもいないのに、あの人を呼び出すはずだったのに、自分が未熟なせいで、結局彼を辛い目に遭わせてしまうことになったから。――自分を裁きにやって来たのかもしれない。

 目を瞑り、深呼吸をする。魔力を感じるつもりがなくても、改めて思い知る。あそこで本を読んでいるだけの女性が、どれだけの魔力を保有しているかを。そしてそんな凄い人を呼び出そうとした自分が、どれだけ思い上がっていたかを。

 本心から呼び出したかったわけではない。あの神官たちの指示するまま、言われた通りにやったまでだ。気の遠くなるほどの長い詠唱、怪しさを感じさせる魔力高揚のための香やマジックアイテム、宝玉を砕いた粉を何日もかかるような細かさで描いた魔法陣。大規模な何かを召喚することは知っていた。怪しい仕事を頼まれたらしいということも知っていた。学園側に、国からとは言えどこんな怪しい仕事の受け付けなんて控えたほうがいいんじゃないかな、と暢気に思っていた。けれど、自分がやったことが、誰かの苦しみを生み出すことになってしまうなんて、思いもしなかったし予想もしていなかった。

 それは自分にとてつもない恐怖を与えたし、とても悲しかった。言い換えれば、自分が呼び出してしまったアキラと言う異界の魂に対し、同情しているということになる。けれど、彼は同情は許さないだろうし、自分も許されるとは思えなかった。しかし、そうとは知っても気持ちは押さえられそうにない。

 そして、もう少しで目を合わせることになるであろう女神のような美しい女性は、彼と同じ異界の魂だ。自分が呼び出す予定だった、自分より何倍もの魔力を秘めた最も有名な異界の魂。

 初めてその女性を見た日は著名人に会えたこととその美しさに興奮して気づきもしなかったが、何日か経ちそのことに気づくと、断罪を前にした死刑囚のような気持ちになる。そんな人を呼び出すなんて自分には一生かかっても出来ないと思うし、呼び出してしまった彼が、もしかして劣等感を抱くかもしれないということを考えると――実際、アキラはこの女性に対し激しい劣等感を抱いていた――、少年の胸は押し潰されそうになる。

 自分の責任を果たすべく、少年は逃げ出したい気持ちを必死で押さえ込んで再び前を向く。気が付けば俯いたり逃げようと後ろを向いていたりして、自分の体だと言うのになかなか油断ならない。

 ままよ、と自分を勇気付けると、なるべく自然体を装って、ロビーに足を運ぶ。それでも聞こえてくる足音はかなりのわざとらしさを含んでいるせいか、女性はすぐに顔を上げた。

「こんにちは」

 柔らかい声と笑顔が、少年に真っ向から突きつけられる。その言葉には悪意もなければ責める気持ちなどない。単なる社交辞令の中に、親愛の情が垣間見えるような優しい挨拶だった。

「・・・・こ、こんにちは」

 けれど返す少年の声は弱々しかった。これから告白せねばならないことを思うと、あの優しい表情が、あの自分に向けられる親しげな笑顔が、途端に凍りつき、拒絶的なものになるだろう。その変貌が恐ろしかったが、それと向き合わなければならないことは何よりも勇気が必要だった。

 挨拶をした少年の元気がないことを心配してか、女性は不思議そうに目を瞬かせる。それから、まるで母親のように心配そうな表情になった。

「気分でも悪いの?階段が辛いなら、手伝…」

「いえ、あ、あのぅ…」

 優しそうな表情と自分に慎重に触れようと腰を上げるその女性に、何を言っていいか分からなくなる。しかしその前に言わないと、謝らないと。そんな気持ちが先行して、全く水気を含んでいない口の中で強引に唾を飲み込むと、少年はまるで起き上がりこぼしのような勢いで頭を下げた。

「ごめんなさい!!

 当然、急に謝られた女性は目を見張る。当然、沈黙は今までのもの以上に重く少年の細い肩に圧し掛かってきた。

 そして何の説明もなく謝った少年はここで笑い飛ばされたり、軽く受け流される可能性に気づいたが既に遅い。瞼の裏が貧血のときと同じように真っ白になり、自分の手足が冷たくなっているのを感じ取りながら、少年は重い鼓動に全身を震わされる気分で女性の反応を待った。少年の気持ちから言えば十分ほど、しかし現実には十秒ほど。

 冷静に考えれば目の前にいる女性が少年の必死の謝罪を訝しむことはあっても笑い飛ばすはずがないことに気付くものだが、少年は当然ながらと言うべきか、その可能性にも気付いていなかった。

 女性は本を閉じ、ソファから音も立てず腰を上げると、震えている少年の肩に優しく触れた。

「急に謝られるようなことを、わたしはあなたにされたのかしら」

 ゆっくりと体を起こすように促され、少年は一瞬安心したものの、再び爆発寸前の鼓動を取り戻す。眼前の女性が自分の行動について詳しく訊ねようとしていることは明白だ。その態度は嬉しい。しかし詳しく言えば、自分は確実に嫌われる。怒られる。それが何より怖い。

 思わず俯く少年に、女性は更に慎重に、優しく少年に触れていたはずの手を離す。実際、今の少年にとって、その手は体に杭を打ちつけられるに等しい恐怖と重みがあった。

 少年はもう一度唾を飲み込むと、一番はっきりと浮かび上がる主張を声に出した。

「ぼ、ぼくは、異界の魂の、召喚を、しました」

 一瞬、女性の表情が固まる。その反応を見ただけで、少年の緊張は解け、しかし更なる罪悪感が洪水のように胸に溢れてくる。

 あとはそう、嫌われるだけだ。優しく綺麗な笑顔を、これから先、向けてもらえなくなるだけだ。

「あ、アキラは、もう、いいって言ってたけど、それでも、ぼくは、…じ、自分に、責任があると思います」

 女性の瞳は笑みも宿していない。ただ、優しいがどこか憐れむような目で、混乱し、震える少年を見ている。当然、少年は気づきもしなかった。何故自分が憐れむように見られているのかも、何故そんな優しげな目をまだ女性が自分に向けるのかも。

 自分の中から言葉を探し出すのに精一杯ということもある。しかし、それ以上に、逆に拒絶的でも怒るようでもない眼前の女性の表情が、少年の中で更なる混乱を呼んでいた。

「けど、ぼくは、アキラを戻す方法が、わかりません…。だ、だから…」

「ごめんなさい」

 遮る言葉はどこまでも優しく、そして呟いたその人は痛ましげな表情だった。

「・・・・・知ってはいるわ。けど、あなたにはそれは出来ない」

「な、なんでですか!?ぼくが呼び出しちゃったのに…!!

「契約だからよ。召喚術の基礎はあなたにも分かるわね?」

 少年は必死になって頷く。

 召喚術とは術者と使役されるものの契約によって成り立つ術。術者が何を望むかによって、使役されるものの働きも微妙に異なる。大抵は眼前の敵の破壊しか願われないため、実際使役するものは忠実にそれを全うし、そして他の界域に戻っていくことになる。しかし、使役されるものは破壊のみではなく、場合によっては仲間を癒すこともできるし、敵の戦力だけではなく士気を削ぐことも出来る。破壊だけではなく、他の命令系統も受け付けるが故に、召喚術は複雑で高位魔法と見なされやすい。だからこそ際立った魔力を持つ少年が選ばれたわけであり、同時に異界の魂の召喚は普通の召喚術よりも更に高度なものとなる。

 しかし、召喚術の基礎である契約――つまり命令であり条件付けは異界の魂の召喚にも言えることだった。術者が使役するものに対して最初に出した命令が、この世界に留まる最大の理由であり原理となる。

「け、けど…アキラの召喚は、最初から、違ってて…」

 少年はあのときのことを思い出そうと、必死になって過去を探る。当時はどうでもいいと思っていた過去だったからか、今は記憶が薄れつつあるが、自分が呼び出してしまった彼のことを思うと濃厚だった靄が少しずつ晴れていく。

 彼を召喚したときの第一の命令、つまり契約の際に出した命令はただ一つ。リトル・スノーに匹敵する力を持てということのみ。

 しかし、実際はそうではなかった。彼には失礼であることは充分承知しているが、彼の力はどれほどのものか知っていても、この女性の魔力には敵うはずがないと、少年は分かっていた。これからも、そうなれる機会なんて実際にあるのかどうか。可能性は限りなくないに近い。

 女性の朝焼けの瞬間を封じ込めたような青い瞳は冷静に輝き、少年の思念に対し頷く。

「そうね。そして彼は召喚された瞬間からその命に対応できる機会を失った」

「だったら、もう一生戻れないんですか?アキラは、・・・・でないと、アキラは帰れないです!!

 支離滅裂な少年の言葉に、けれど女性は驚きも笑いもしなかった。ただ、憐れむように少年を見つめる。

「・・・・あなたがそこまで責任を感じる必要はないわ。それは、彼次第なのだから」

 そうだ。少年が責任を感じるのはあの不完全と呼ばれた異界の魂の双肩に掛かっている。しかし、少年は何となく分かっていた。アキラは自分を責めても戻れないと知っているからこそ、もう自分を責めないだけだということを。

 ただ憤りの対象が、自分ではなくなっただけであり、決して彼の気持ちは安らぐこともなければ、その問題について解消されているなんてことはないということを。

 不意に泣き出しそうになる少年の頬に、優しく女性の手が触れる。

「あなたはわたしに謝ったけれど、それはわたしには必要のないことなの。むしろ、あなたの心を不安にさせてしまったのなら、わたしのほうが謝るべきだわ」

 そんなことはないと、少年は首を横に振る。

 彼女も恐らく被害者なのだ。チキュウに帰りたいと、心の底から願ったことが何度もあるはずなのだ。その度に召喚者に対し、恨みや憤りを感じたに違いない。そうだとしたら自分は、つまり召喚者は加害者だ。そうなれば八つ当たりなんかではなく、彼女も真っ当に自分を責める権利がある。

 綺麗で優しいこの人に嫌われるのは、想像するだけで辛い。けれど、嫌われて当然のことをした自分の責任がうやむやになってしまうよりもずっといい。そうやって、うやむやにすることで、自分はアキラという被害者が自分に与えて当然の権利から逃げたのだから。

 女性は更に優しく、泣きそうな少年の頬を包み込む。

「それに、わたしに謝るのなら彼に謝りなさい。あなたが心の底から反省していると分かってくれたほうが、あなたにとっても彼にとってもいいことでしょう?」

「・・・・けど・・・・・・けど、アキラちゃんは・・・・・」

 自分の言葉を聞くことなど、あるのだろうか。

 反省していると分かっていても、結局、誠意を示す機会などあるのだろうか。最も関連が深く重大であろう異界の魂の召喚方法も、少年は覚えていなかった。思い出そうとしても、集中力散漫である少年が全てを覚えているはずがない。何より、召喚当時、大規模なその魔方陣を見ただけで、少年は覚えることを諦めたのだ。そんな怠惰な自分が、今は恨んでも恨みきれない。

 涙腺の決壊があとほんの数秒といったところで、不意にあることが彼の頭に浮かび上がり、急に涙が消え去る。

 相手が誰であるかということも忘れて、思わず女性の裾にしがみついた。

「あっ、あのっ!」

 しかし、女性は少し辛そうに顔を歪め、首を横に振る。

「契約の差し替えなら、恐らくあなたには無理だわ。召喚方法を熟知していないと駄目だから」

「けどそれだったら、召喚方法が分かったらアキラちゃんは帰れるんですか!?

「そうかもしれないわね」

 冷静な声は、一瞬にして少年に希望を甦らせる。涙は枯れ、紅潮した頬の少年に、しかし女性は辛そうな眼差しを向けた。

「分かればいいということではないの。召喚時に必要な魔力か、それ以上の魔力が必要となるから、あなた一人では出来ないわ」

「けど、きっと皆、協力してくれます!アキラちゃんが戻るためなら、ぼくもいっぱいがんばります!」

 俄然、希望が持てるようになったらしい少年に、女性は控えめに微笑む。しかし、それはただ少年のやる気を微笑ましく思っているだけで、その希望に満ち溢れた姿に確信を持ったからこその笑みには見えなかった。

 しかし、少年は女性の蔭りのある笑みをそうは取らず、本来のいきいきとした目で女性を覗き込む。

「あの…けど、あなたは、できないかもしれません…。腕利きの魔術師を、百人ぐらい呼んだらできるかもしれないけど…」

「そう。けどその気持ちだけ頂いておくわ。わたしにはそれは必要ないから」

 意味が分からず、少年は女性を真っ直ぐに見返す。女性は穏やかな表情を取り戻すと、懐かしむように少年を瞳の中に映し込む。

「わたしはね、もうここから離れたくないの。それどころか、帰してほしくないの」

 少年はその発言に仰天する。アキラはこの世界の来ても、あまり楽しくなさそうだし、何より召喚した自分を責めていた。しかし、この女性は逆にここに来たことを感謝しているのだろうか。家族や友だちや元いた世界が、恋しくないのだろうか。

 少年の頭の中でそんな疑問が浮かび上がる間、女性は少し遠い目をして立ち上がり、ソファに座っていた。

「わたしはここで本当の友を得て、本当の恋を得て、本当の生きがいを見つけたから。帰りたくはあるわ。けど、それよりもずっと、ここにいたい」

「・・・・あの、家族の人たちは」

「さあ。けど、ここで出会った人たちは、わたしを理解してくれようとしたし、わたしもそれに応えようとさせてくれる人ばかりだった」

 つまりあちらの世界では、この眼前の、誰がどう見ても嫌いになれないような女性は、一人ぼっちだったということなのだろうか。それは少年にとって信じられないことではあったが、女性の浮かべる笑みは、それが真実であると語るような、ほんの少しの後ろめたさを持っていた。

「それは…あの、ここのほうが、もといた世界よりもずっと好きだってことですか?」

「ええ。そうなるわ」

「そう、なんですか・・・・」

 彼もそうなったらいいなと、一瞬思ってしまう自分の考えを、少年は慌てて振り払う。

 そんなことは思ってはいけない。それは単なる逃げでしかないし、自分の犯した罪の重さは変わらない。それにこの世界で彼が元の世界に帰るまで、たとえ充実した日々を送ったとしても、決して自分に感謝はしないだろう。それは、結局起きてしまったことに対し、否定的ではなく肯定的になっただけであり、根本の問題が取り除かれるわけではないのだから。

「そんなに、召喚したことの責任は、あなたにとって重いものなの?」

 不思議そうな女性の疑問に、少年は大きく頷いた。

「だってぼくは、あの人たちの自己満足に付き合っちゃったんです。ちゃんと理由を知って、召喚の内容もしっかり分かっていれば、やめようとか、失敗しちゃおうとか、色々できたはずです。そうしたら、アキラちゃんを呼び出すことはなかったんです」

 無知ゆえの重罪は、それこそ誰にとてあることだろう。しかし、少年は自らの罪と相手の不幸を目の当たりにする機会を得、それによって仕事の詳しい背景を知ろうとしなかった自分の怠惰を呪った。

「ぼくは、アキラちゃんみたいな人を、増やしたくありません。アキラちゃんはここに来たくて来たわけじゃないし、アキラちゃん自身が望まれたわけでもないんです。それって、物凄く、辛いことじゃないでしょうか…?」

「そうね」

 あっさりと、静かに、女性は頷く。

「けど、異界の魂というものはそういうものではないのかしら。本人が選ばれるのではなく、ただ条件を満たす要素がある者を――もっと直接的に言えば、力を求めて、召喚者たちは異界の魂を呼ぶものよ。そこに個は存在しないわ」

 それは、少年にとって非情な言葉に感じた。召喚術とは確かに、術者に出来ない力を求めるからこそ一時的にこちらに何かを召喚し、それに頼る。しかし、その条件が困難なものであるがゆえに、異界の魂という、心も感情も命もある人間の一生の時間が犠牲となってしまう。乱暴な術だと、少年は眉をしかめた。

「ぼく、これから召喚術はしないようにします…」

「なぜ?あなたがしてはいけないのは、あの秘儀だけでしょう?」

「けど・・・・・」

 一時的とはいえ、召喚された他界域に現れるものたちは、異界の魂と同じように、辛い思いをしているのかもしれない。そう思うと、少年にとって召喚術というものがとても非道なものに見えてきた。

 しかし、女性はそれこそおかしなことだとでもいうように、薄く笑みさえ浮かべて首を傾げる。

「召喚術を極めれば、いつか異界の魂の召喚方法に辿り付くかもしれない。それに、あなたは大きな肩書きを得たわ。異界の魂の召喚を行ったことがあるなら、その実績を見込まれて再び依頼されるかもしれないもの」

「だったら…!」

 詳しく異界の魂の召喚方法が分かるかもしれない。召喚方法が分かれば、契約の変更を――彼をチキュウに戻す手がかりを得ることになる。それに、命を狙われるかもしれないが、不幸にも呼ばれる異界の魂の召喚を、今度は阻止できる。

 少年の表情は先ほどよりも更に輝かしいものとなり、最初に女性に向かい合ったときとは正反対の、心の底から嬉しそうな、使命感を自覚する凛々しささえ持った表情となっていた。

 女性は少年に対し、その気持ちを確信付けるように微笑む。すると、その方法が絶対のものだと言われたような気持ちになったのか、少年はもう既に彼をチキュウに帰す方法でも見つかったような舞い上がりようを見せた。

「ぼく、タルちゃんに知らせてきます!アキラちゃんが帰れる方法がわかるかもしれないって!」

「そう。転ばないようにね」

「はい!」

「それと、彼にも知らせないように」

 その言葉に、少年は耳を疑う。タルナーダの部屋へと階段を駆け上がってた足は止まり、少年はいまだに穏やかな表情を宿す女性を見た。

「なんでですか…?アキラちゃん、聞いたらきっと・・・・」

「彼はきっと、信じない。それが絶対かどうか分からないと言うでしょう」

「けど・・・・」

 リトル・スノーが言うのだから。そう反論しかけた少年に、女性は憐れみにも似た笑みで首を振る。

「だめ。彼はぬか喜びが怖いの。そして、あなたが再び異界の魂を召喚する日はいつになるのか、具体的には分からないでしょう?」

「あ・・・・・」

 そういわれて、すっかり先ほどの勢いをなくした少年ではあるが、それでも戻る方法の可能性を得たことには違いない。舞い上がりはしないものの、嬉しそうな表情のままで頷いた。

「そうしたら、やっぱりタルちゃんにだけ話します。それから、全部やり方がわかってから、アキラちゃんに教えます」

「そうね。それがいいわ」

 女性の返事を聞いて、少年は嬉しそうに階段を駆け上がっていく。

 少年の赤紫の外套が見えなくなったところで、女性は宿していた笑みを掻き消し、それから傍に置いていた本を再び手に取る。

「嘘吐いて、ごめんなさいね」

 軽く吐いたため息と同時に漏れた言葉など、当然、あの少年には聞こえているはずもない。

 それを承知で、女性は自虐的に微笑む。希望を振りまくふりをして、実際は絶望を振りまく自分の言動に。

 

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