か細く、震えるような息が肌に触れ合う。 互いに相手の肩や腰に柔く触れていた手を離し、二人はぎこちなくも微笑み合った。 「それじゃあ、また明日」 「ああ。おやすみ」 それからドアが閉まると、シュウは大きくため息を漏らし、自室に向かう。 繋がることを覚えても、そう毎日のようにしてはいられない。部屋割りも月に二、三度ほど行われ、それによってようやく得た個室のときに、夜の逢瀬は可能となる。 しかし、それだって彼女が躊躇ってしまえば強引に踏み込めるはずもなく、同時にただ相手に激しい感情をぶつけるだけとなるのはあまりにも情緒がない。ついでに言えば、物音が聞こえることで隣の部屋の誰かが警戒するのが怖い。だから夜中に会うといってもただ何もせず、とりとめもないことを話し合うことが多かった。その間に、相手の身体に触れていたり、たまに子どものような口付けを交わすことがあるが、それだけだ。そんな気分になってしまっても、かなりの労力が必要となるが、我慢しようと思えば出来る。 それでも、やはり後ろめたさはある。 この旅の中で最も苦しんでいる異界の魂のことを思うと、二人の表情はいつも暗くなった。彼のおかげでまた出会えた。彼のおかげでこうしていれる。けれど、その機会を与えてくれた彼は全然幸せなんかじゃない。 だからといって、二人ができることなど限られている。そしてそれは、確実に彼の負担を減らせるかといえばそうではなく、それをどう受け取るのも彼次第となる。いってみれば、彼だけの問題。だから、二人が心を痛めたところでどうしようもないものだ。しかし、だからといって彼をそのままにしておくのは憚られる。 どうしたものか、とシュウは再びため息を吐く。 それから自室のドアの前に立とうとした瞬間、前から誰かがやって来た。 「遅いのね」 誰かと思って顔を上げれば、そこには真っ白な、否、淡い銀色の髪をした女性がいた。 優しい目元に、慎ましいが高貴とも感じ取れる存在感。完全なる異界の魂であり、悲劇の女王。――その女性を初めて見たとき、シュウはなんとなく、彼にとっての唯一の存在である彼女に似ていると思った。 こんな時間にリトル・スノーが一人でいるのも珍しい。そう思いながらも彼は軽く会釈をすると、女王は律儀にも返してくれた。 「こんばんは」 「今晩は」 挨拶を交わし、それから自室に入ろうとするが、それより先にリトル・スノーは軽く目を見開いて呟いた。 「お菓子でも食べていたの?」 「はい?」 「甘い香りがするけど…」 「は?」 当然のように、その言葉にシュウは一瞬硬直する。それは匂いが彼の服へと染み付いた証。誰の匂いか、何故染み付くようなことになったのかは、彼は誤解などできないほど理解していた。 それから勢いよく女王のほうを見ると、シュウの明らかな動揺した態度に何らかの思い当たるものがあったらしい。困ったように笑って、ひらひらと手を振った。 「ごめんなさいね、野暮なこと言って」 「いえ、そういうわけではなく…!」 夜中だというのに大声を出した彼に、リトル・スノーは再び驚いたように軽く目を見張る。そして女性の真夏の海よりも神秘的なものを持った真っ青な瞳に、ようやく自分のいる場所と時間を思い出すと、彼は焦る自分を落ち着けるためにと大きく深呼吸をした。 急な出来事には弱いことは、自分が一番良くわかっていた。だから、さすがに今ここで長くかかりそうな言い訳をしたとしても理解してもらえるとは限らないし、今ここで説明すれば、二人の逢瀬の意味がなくなる。 「・・・・・もしよろしかったら、むこうで説明しても構いませんか?」 テラスを指差し、大きくため息をつきながらの彼の言葉に、女性は少し考えるように目をあさっての方向に向けていたが、結局は微笑み頷いた。 粗方の説明が終わると、リトル・スノーはまるで少女のように淡く頬を染め、小さく拍手をした。拍手をされてしまったシュウのほうは、気恥ずかしくて女性を見ていられない。 「そこまでする必要はないと思いますが…」 「そうかしら?けど、そういうことって素敵だもの」 「そう、ですか・・・・・」 ますます恥ずかしくなったシュウではあるが、リトル・スノーには一切の悪気がないように感じられた。恐らく純粋にそう思っているのだろうが、彼からすれば冷やかし以上の何ものでもない。危うく飛び出しそうになった相手への非難を飲み込むと、彼は大きくため息を吐いて最も重大なことを考える。 「それで、話しておいて矛盾しているかもしれませんが、失礼ですが、他の皆にはこのことは内密に願います」 「どうして?」 来ると思った問いかけに、シュウは頭の中で単純に隠したいから、と答える。が、実際はそういう問題ではない。 「・・・・・・恥ずかしいの?」 リトル・スノーの優しげだが、どこか茶目っ気を持って冷やかしているような口調に、彼は首を横に振る。 「後ろめたいんです…一見すれば気楽な旅に見えるかもしれませんが、実際は命がけですし、一人とはいえ人生がかかっている旅です。そんな中で、賑やかに馴れ合うことは彼…アキラのためになるかもしれない。けど、僕らの関係は彼のためにならないでしょう」 実のところ、不完全と呼ばれる異界の魂のためにこの旅が賑やかだというわけではない。ただ集まれば賑やかな少女たちが仲間に加わったせいで、自然と賑やかになっただけだ。その輪の中に彼も強制的に参加させられ、彼にしてはいい迷惑かもしれないが、それで気分が紛れるならば悪いことではない。だが、それに乗じて二人きりで自己満足を満たすのは、都合の良い話ではないのだろうか。 その罪悪感のせいか、それとも赤毛の勇者見習いを自称する少女に影響されて積極的になったのか、ネージュはよく彼に気を遣う。二人きりの会話の中でも、たまにその不幸な異界の魂の話題が出ることはあった。その会話の中には、決して単純な明るいものなどない。ただ、彼が少しでもこの世界を気に入ればいいと、嫌悪や不満を持たなければいいと、必死で祈るような気持ちが含まれていた。そのために自分が骨身を尽くすことなど、当然彼女は犠牲の内に含んでいないようだった。 それが悔しくもある。彼女にとって、シュウの存在は私的なものに含まれてしまった。だから欲求を我慢して当然だし、後回しにして当然の存在。最優先すべきは身近にいる最も不幸な存在。そして、その不幸な彼は自分と同性で、普通の価値観を持っているから彼女のような少女にまめまめしく世話を焼かれることに悪い気はしないだろう。言ってみれば単純な嫉妬だ。けれど、それを彼女に訴えることなどできるはずもない。それは仲間になった以上の義務なのだから。 「そうね。けど、義務に囚われるのは悪いことではないとしても、二人のことを疎かにするのはもっといけないと思うわ」 単刀直入に言われて、シュウは弾かれたようにリトル・スノーを見る。風に軽くもてあそばれるその長い髪は、冬の夜空に浮かぶ月と同じ輝きを持っていた。 リトル・スノーは彼の視線に柔らかな笑みで受け止めると、次に小首を傾げる。 「じゃあ、この旅の目的が終わってしまえば、一緒にいるの?」 「・・・・それは、どうでしょう。よく、分かりません」 素直な感情を、意地を張ってしまいがちな彼にしては自然と漏らした。 「先程も言いましたが、この旅で、会えると思っていなかったのに、僕たちは再会しました。それは僕たちの実力ではなく、単なる偶然です」 「運も実力のうちとは考えないの?」 「・・・・実力の一部であることは認めます。けれど、それに甘えるのはいいことではないとも、思っています」 旅が終わるときに、そのまま具体的な再会の約束ができないことはない。しかし、それでは調子が良すぎる。アキラが元の世界に帰ることが出来るのならば、確かに胸の痞えはなくなるから、そのままの勢いで自分を誤魔化すことは可能かもしれない。だが、もし彼が元の世界に戻れなかったらどうなるのだろう。結局旅が終わったんだからといって、自分たちだけ幸せな未来を約束するなど、おこがましいことではないのか。 だから、流れのままに一緒になるのは嫌だった。それよりも、ふっきれるか、自分たちなりにけじめを即けないと、後ろめたさが残るのではないかと感じる。 「幸せになるためなら、今持っている大切なものでも切り捨てることを辞さないくらいの覚悟は、今の僕にはありません。だから、それでもいいと思えた日に、彼女を迎えに行きたいと思います」 「・・・・・つまり、あなたの自己満足に、彼女を巻き込むのね」 「なっ・・・・!!」 そんなことはない、と言いかけるが、言われてみればそうかもしれない。だが、完全な自己満足ではないはずだと思い直すと、優しげに、してみれば哀れむように自分を見ている女性を見返した。 「・・・・そんなつもりはありません。彼女も、それがいいと言ってくれるはずです」 「そうね。あなたの言葉だから、受け入れるしかないもの」 表情は穏やかだが、リトル・スノーの言葉は真冬の時化より厳しい。だから一瞬錯覚してしまうが、彼は自分に油断すまいと女性を見る。この人は、理由は分からないが暗に自分を侮辱しているのだと、言い聞かせて。 「それは、彼女が僕の間違いを、指摘するつもりがないということですか?」 「ええ。けど、理屈で言えば間違いはないから――感情論を振りかざすにしても、勢いがなければ意味がないわ。その勢いを削がれたも同然だもの。きっと何も言わない」 彼女をよくよく知ったふうに、リトル・スノーは言葉を紡ぐ。あなたには考えもつかないでしょう、あなたは彼女の何も知らないでしょう。そう裏で囁くように、耳には心地よく、だが内容は針を刺すように鋭く。 そしてそれは誘発する。彼が感情的になるように。彼が冷静になどなれないように。理屈で考える彼が、自身が弱いはずの感情論の舞台に促すように。 「何故、そう言い切れます?」 珍しくも他人に、特に女性に対し苛立ちの声を露わにしたシュウに、しかし女性は特に動じることなく微笑んだ。 「男の人って、自己満足のためにしか動かないって知っているの」 優しく、儚く、それでいて純潔を守り通した乙女のような空気を保ったまま、リトル・スノーの唇は言葉を紡ぐ。そしてその現実的で辛辣な言葉は、彼の図星をひたすらに突いていく。ただあくまで口調は相変わらずたおやかだからこそ、その言葉は強く鋭く、彼の胸を突き刺した。 女性だってそうではないのかと、反論を持ち出しそうになる。その反論の根拠は、ある程度尊敬できると思っていた異性の人々。その裏を返せば、尊敬させられているという奇妙な脅迫感。本心から尊敬している異性など自分の中ではいないのだと、一瞬無防備で無作法な自分が現れる。 それを頭から振り払いながら、自分の問題なのだと彼は言い聞かせる。性差別の問題に逃げてはならないと。 「・・・・そんなことはありません。周囲に対し、後ろめたくない状態でいたいだけです」 「そう。なら、好きな人のことはどうでもいいのね」 「は…!?」 「逆に訊きたいの。何故、そうまでして環境的に自分が優位でなければ満足しないの?あなたは何もかも捨てる覚悟と言ったのに、何故『迎えに』行くの?」 急な問いかけに、一瞬舌が絡まる。それはつまり、まさしく自己満足でしか動くつもりがないということ。自分は環境が変わる覚悟ができていても、彼女は覚悟ができていなかったら。彼女には彼女なりの生き方を模索しているときに、強引に連れ去ることになってしまうのなら。 それは、言い逃れが出来ないほどの自己満足であるということ。自分がいいから相手も我慢してくれるなんて、わがままな考えが働いていたことを表す。だって、彼女は今はあの異界の魂の気持ちを優先しているから。それに対し我慢した自分だって彼女を好き勝手にしてもいいはずと、勝手に解釈付けて。 「彼女はあなたが大切だから、それがわがままでも正しいことでも受け入れるでしょう。けれど、あなたと比べられない別種のものを計りにかけられるとしたら、彼女はあなたのことを純粋に好きでいられるのかしら」 女王の言葉の響きはあくまで優しい。だが、その唇が示す言葉は、好きだからと言ってあらゆるわがままが受け入れられると信じていること。悪意ではないから大丈夫、信じているから大丈夫と、確実に彼女を好意の鎖で縛っていること。そしてそれが、自分だから許されると驕っていること。 返すべき言葉をなくし、大きくため息を吐くと、彼はテラスの手すりにもたれかかった。 それを見て、リトル・スノーは言い過ぎたと受け止めたのか、すまなさそうな笑みを口元に宿して言葉をかける。 「もちろん、彼女は他のものを投げ出してくれとあなたに泣き付かれたら投げ出すでしょうね。けれど、そうなってもきっと彼女はうわの空。幸せなのはあなただけ」 「・・・・・とどめを刺さないでください」 きっと出るのは慰めの言葉だろうと密かに期待していたシュウを蹴落とすかのような言葉に、彼は頭を抱えて唸り声を上げる。 「そんなつもりはないの。ただ、昔、そういう考えでいた人を知っていただけ」 「・・・・・そう、ですか」 恐らく恋人なのだろうが、過去相手に言えなかったことを、今の他人であるはずの自分に言うのは八つ当たりではないのだろうかと、散々精神的に痛めつけられた頭で彼は考える。しかし、そんな考えを当然知らないように、女王はいけしゃあしゃあと笑顔で言い放つ。 「いい勉強になったかしら?」 最高級の青玉ですら及びもつかない煌きを持つ瞳が、まっすぐに彼に向けられる。深い夜空の中にあっても、全くそれに負けることのない凛とした輝きがそこにある。それは純粋に美しいと感じさせるほどの生きる宝石だが、その瞳を持つ人は純粋に美しいとはしゃぐ余裕を与えてくれるような人ではないらしい。 「・・・・・はい。ありがとうございます」 そんな優しくも強い、まるで彼女の言葉のような笑顔を向けられるとなると、そう答えないといけない気がして、彼は操り人形になったような気分で礼を吐き出した。 どう致しましてと返し、リトル・スノーは微笑むと、踵を返して自室へと戻っていった。 その華奢い背中を見ながら、彼は手すりに背を預けた状態で座り込む。そして長いため息を吐くと、彼は自分も部屋に戻ろうとゆっくりと立ち上がった。 反省は生かさねばならない。いくらやり方が強引で、傲慢な物言いで、正しいかもしれないが何かこちらを嫌な気分にさせる方法で知らされても、確かに彼女の気持ちを考えることは彼にとっては大切だ。 文句なしに美しいが故に忌々しいとも思えるひととの会話を思い出しながら、彼はゆっくりと歩き出す。 旅が終わった後のことを、もう一度、今度は彼女と話し合って決めねばならないことを肝に銘じて。 漂う日向の香りに誘われて、まるで夢遊病者のような足取りでリムリムは廊下を歩く。 自室の糊の利いたシーツの上で昼寝をするつもりではあったが、気まぐれが彼女を急き立てて、今日はどこか別のところで寝ようと囁き始めた。 そうなってしまえば仕方がない。いくら面倒だからここで寝るとリムリム自身が言ったところで、その気持ちもなかなかにしつこい。それどころか、他の気持ちすら勧誘して、彼女の眠気を少しずつ覚ましていく。結局、他が気になって眠れなくなってしまい、まだ完全に目覚めていない頭と体を引きずりながらふらふらと二階の廊下をさ迷い歩く。 周囲に人気はなく、いつも明るく賑やかな同級生たちも、街に出かけるか、ダンジョンに繰り出しているのだろう。彼女の不安定な足取りがかもし出す奇妙な足音だけが廊下に響き渡っていた。 廊下の隅まで到着すると、今度は下の階に繋がる階段を見る。階段を下りてしまえば外に出るが、何もそこまで苦労して行かなくてもと思う自分もいる。しかし、見も心も満足する昼寝のためならば我慢するしかない。恐れるべきことは、その苦労の甲斐あって絶好の昼寝場所を発見しても、そのときに全く眠くならないことである。 とは言っても、やはり少々の努力くらいならばするべきだろうと自分を励まし、階段をやはり不安定なリズムで下りていく。 そして階段を下りたそこに、日向ではなく夏の夕暮れ、春の朝日のような涼しくも優しい甘さを残した女性がいた。優しくきれいな、母親の香りのする人だ。ソファに座り、分厚くて埃っぽい本を読んでいる。 「ママ、こんにちは」 「こんにちは、リムリムちゃん」 そう挨拶を交わすが、女性は少し苦笑気味だった。困ったように笑いかけ、軽く首を傾ける。 「リムリムちゃん、わたしはあなたのママじゃないのよ?前にも言ったでしょう?」 「うん、けど、誰かのママでしょう?」 当然のようにリムリムはそう思っていた。子を産んだ女性は皆して共通の香りを持つ。それは年齢や個性によっても違うが、この眼前の女性は特にその香りが強く感じられた。まだ子を産んで間もない、うら若く未熟な母親の香りだ。 「・・・・っ」 しかし、その言葉に女性は表情を崩した。今までリムリムが女性を見、はたまた同級生たちの女性の評判を聞く中で、全く見たことがないような、怪訝とも不意を突かれたともいえるような表情で。それから動揺した自分を押さえ込むように、女性は俯いてしまう。 何か悪いことを言ってしまったようだが、何故女性が誰かの母親であることを指摘してはいけないのか。首を傾げると、何も知らない彼女は一つの可能性を思いついた。 「ママになることはあなたにはいけないこと?」 「・・・・そんなことはないわ」 落ち着いて首を横に振る。しかし、その表情は女性には珍しいほどぎこちなかった。 そして再びリムリムは考える。母親になることが、この女性にとって都合の悪いことではない。なのに、何故母親であることを隠したいのか。 「みんながびっくりしちゃうの?」 「ええ、そうね」 「みんながびっくりするのは悪いことなの?」 あくまで素朴な口調の問いかけに、女性は控えめに、ほんの少し悲しそうに微笑んだ。 「いい秘密ではないから。それを言ってしまえば、皆は単純に祝福してくれることではないの」 「女王さまだから?」 「そうよ」 初めてリトル・スノーと会ったとき、女性が持つ母親の香りにすっかり懐かしさを感じてしまったリムリムに、その後で懇々と仲間達が教えてくれたことを彼女は思い出す。行方不明のはずだけれど、何故かは分からないが今は生きている有名な女王だと把握すると、彼女はすっかり納得した気持ちでいた。実際には細々と補足する部分があるのだが、大まかな概要が掴めれば学園での授業も何とかなったリムリムに、誰もその補足説明をするつもりなどなかった。 女性の頷きに納得すると、彼女は大きく頷いた。 「だったら、リムリムしゃべらない。内緒にするね」 その言葉に、女性はようやく表情を和らげた。まだ緊張している様子ではあるが、最も重大な問題は解消されたらしく、安心の吐息を吐いて彼女に微笑む。 「ありがとう。そうしてもらえると嬉しいわ」 「うん」 頷くリムリムに、女性は再び微笑みかける。しかし、その表情は相変わらずぎこちなく、そして同時に物悲しいものに見えた。そして、その笑みが自分を疑っているわけではないと直感で分かると、彼女は再び首を傾げる。 内緒にすると約束した以上、守るのが礼儀だ。だからあまり親しくなくとも守る。だが、それでも悲しそうなのは何故だろう。いつもは本当に母親のような笑顔を誰かに見せているのに。 「ママって呼ばれるのはイヤなの?」 「いやではないわ。慣れていないの」 「赤ちゃんにママって呼ばれなかったから?」 「ええ。一度もないの」 そう言いきられて、リムリムは驚いた。頷いたその表情はとても静かで、無表情に近いからこそ内に秘められた悲しみが伝わる。そのきれいな瞳を持つ女性は、母親として子を保護することを望んでいないのだと――否、望むことを切り捨てるしかなかったのだと、本能的に思い知る。 彼女は少し悲しくなった。このひとは、母であったにも関わらず、その権利を自ら捨ててしまったのだ。母親になる権利を捨てなければならないほど重大なものを取ったことになるのだが、きっと捨てたくはなかっただろう。それは自分が親に愛されている子どもであるからではなく、誰だってそのはずだからだ。本能のみの動物でも、子を簡単に殺してしまうはずなどない。産める自分を生かすために殺してしまうことはあっても、その天秤に掛けられた両者の重みはほぼ同じである。そして子を殺してしまうように追い込む環境は、実に厳しい。 きっと、この女性を追い込んだのも厳しい環境のせいなのだろう、とリムリムは納得する。女王だからといって何でも自由にできるとは限らない。誰とて組織からの自由を求め頂点を目指しても、その頂点には頂点なりの悩みや束縛があることを、彼女は海賊という大きな組織と触れ合って客観的に学んでいる。それは恐らく、国の規模でも同じなのだと彼女は思った。 それから、迂闊な自分に反省する。母親の香りを持っているひとだからと言って、簡単に母と呼んでしまったこの失態。自分だって、母と呼べるのは、故郷にいる自分の母しかいないのに、その権利を簡単に奪ってしまってはならない。 「赤ちゃん、ごめんなさい」 そう、獣の頭を大きく揺らしてお辞儀をするリムリムに、女性は軽く目を見開く。泣きそうとまではいかないまでも、珍しく大きな緑の瞳を悲しげに潤ませている彼女を見て、逆にリトル・スノーのほうが遠慮がちな笑みを見せた。 「どうして謝るの?」 「あなたの赤ちゃんがママって呼んだこともないのに、リムリムがママって呼ぶのは横取りになっちゃうから」 そう言われて、初めて彼女の意図が汲めたらしい。少し驚いたように青い瞳の深みが明度を増したが、それも一瞬で次には女性がいつも宿すような、しかしただきれいなだけではない、慈愛を含んだ笑みが現れた。 「謝るほどのことではないけど、ありがとう。そう思ってくれると嬉しいわ」 「うん」 リムリムは満足気に頷く。それから、彼女なりに少し気になったことを思いつく。今までの会話からだけでも、何故子どもを見捨てるようなことになってしまったのか、何故そんな状況で子を産むのか、本当に愛していたのかなど、常人ならば尽きない疑問があるだろうが、彼女はそういうものは気にならなかった。自分でも納得できない理由や感情が働いて、今の自分があるのだ。それと同類のものを他者に説明してもらっても納得できるつもりはないし、恐らく理解もできない。だからそれを説明してもらうのは時間の無駄だと思った。 リムリムが気になったのは、眼前の女性に聞いても分かることかどうかは、理屈でいえば分からないことだった。けれど母親なのだからきっと分かるだろうと思うと、口に出して尋ねてみる。 「赤ちゃんは元気なの?」 「ええ、幸せなのかも忙しいのかも分からないけど、きっと元気でやっているわ」 リトル・スノーの言葉に迷いはなかった。ただ晴れ晴れとした、本当にそれだけを長い間祈っていたかのような笑顔を浮かべ、そう答えた。 その笑顔は人を喜ばせる。そういう仕組みで能力なのだとしても、人をそうさせる力があることには違いない。だからリムリムも迷いなく笑った。 「よかったね」 「そうね」 それから、彼女はふとあることを考えついた。女性の秘密を知ってしまったのだから、自分の秘密も教えなければならないと思い立ち、彼女は女性の近くに歩み寄った。 「リムリム、夢があるの」 「どんな夢?」 女性は急な話題の変換にも、慌てず呆れず乗って来る。もともと少女たちのお喋りは三分前の話題など残りもしない。お喋りと称した連想ゲームのような短い会話が続くものだが、それは数十年前の女性たちでも別段変わらぬようだ。 すっかり女性は普段の表情に戻るが、別段それも気にせずリムリムは声を潜めた。 「お嫁さんになる夢。それから、ママになるの」 それに、女性は少し笑った。それはその夢の微笑ましさではなく、自分が望んだが決して得られなかった幸せの一部を、この小さな少女はそれのみを目指しているのだと知ったことに対する、この出会いの皮肉に対しての笑みだった。誰かの正式な伴侶となることも、誰かの母となることも捨てた女性が、女性のその可能性を見破り、そしてそれだけを目指す少女と出会う。 どんな厭味にも耐え忍ぶ自信を持つ女性が、この言葉には胸が痛んだ。それを目指す少女が純粋なだけに、胸に突き刺さる棘は殊更鋭い。 しかし、彼女の秘密はそれだけではなかった。それだけのことなら、同級生たちは大抵知っているからだ。 「お婿さんは、この中にいるんだよ」 それこそが、リムリムが重大だと感じ、女性以外には誰にも話したことがない秘密だった。この中、とは勿論この旅の一行のことを指すと分かると、女性は軽く驚くような声を挙げた。 「誰かは分かるの?」 「ううん、わからない。けど、お婿さんはこの中にいるの。そんな気がするから」 言ってみれば単なる勘に過ぎない。しかし、それでも女性は冗談と受け取ることなどしなかった。第六感に導かれることは、実際女性にはあったからだ。しかしそれは女性の場合、恋人ではなく、得難き親友を得るためのものであった。 この可愛らしい少女の直感の芽に水を与えるように、女性は微笑みその手を軽く握る。十代の後半であるはずの体だというのに、その奇妙な手袋に覆われた手は、小さく細く、可愛らしかった。 「応援するわ。素敵なお家を築けますようにって」 「うん、ありがとう」 それからお互いに微笑みあうと、女性は彼女の手を離し再び本を手に取り、彼女は女性の手から解放されると外へと向かっていった。昼寝場所を見つけに行くそうだ。 ドアに吊るしたベルの音が聞こえ、再びロビーには女性以外の誰もいなくなる。女性は小さくため息を吐き、それから祈るように手を組んだ。 彼らが成人したときにも、この世界が些細な幸せを壊さぬようにと祈る。だがそれは、単なる気休めにしかならないことは、女性は痛いほどよく分かっていた。 |