Bear pain, a goddess

  

 自分の故郷と同じような北国に住んでいたはずなのに、その女性は皮のサンダルを履いていた。肌を極力見せまいとしているドレスは薄布であるし、あの女には体感温度というものは存在するのかと問いたくなる。

 しかし、ここはそう寒くはない。自分も身軽さを追求したせいか露出は高いほうだし、そんなことは別に気にすまいと自分に言い聞かせると、彼は低温の頭でどうすべきか考える。

 ルネージュ公国の神官たちから受けた任務は、不完全な異界の魂の抹殺。しかし、それは結局出来ないこととなってしまった。理由は多々ある。相手が手ごわかったこと、自分が一人で相手側には多数の手足れがいたこと、顔見知りがいたこと、その顔見知りに説得されたこと、いつの間にかこの一行に馴染んでしまった自分がいること。

 最後の一つを頭に思い浮かべると、彼は小さくため息を吐いた。馬鹿馬鹿しいと一蹴し、他の理由を考える。

 ――それからクリングゾールと名乗るもう一人の不完全な異界の魂が、自分の依頼者たちを始末したと告げたこと。それによって、自分の任務はご破算となってしまったこと。それから組織からの新たな命令もなく、特に行くところもないからと言い聞かせ、またこうしてだらだらとこの一同に付き合っていること。

 依頼者を殺されても個人的には何とも思いはしないが、少し腹立たしくもある。恨みがましい相手であるとは理解してやってもいいが、だからと言って自分の任務が完了するまで待つぐらいの余裕はないのかとも言いたくなる。依頼者を殺され、任務が破算となったその腹いせに、件の異界の魂に一太刀浴びせたくなったから付いて来ている、というのが、公に対する今のラウールの存在理由かもしれなかった。彼にしては感情的な理由だが、それで納得しない者はいなかった。

 だが、ここに来て完全な異界の魂が出現した。一ヶ月――正確にはあと二十日ほど滞在すれば、勝手にいなくなるという。そうなら出てくるなと言いたくなるが、それでも出てきてしまったものは仕方がない。不完全な異界の魂の殺害は未遂となるが、それでもあの異界の魂を依頼者たちの元へ届けてしまえば任務遂行となるかを考える。それは当然ながら代理に過ぎないし、完全な遂行とは言い難い。しかし、そのしくじりを取り消すだけの力があるのではないかとも思える。

 だが、もしあの異界の魂をさらったとしても、依頼者はもう死んでしまった。誰が自分の仕事を評価するというのだ。暗部の仕事故、知っている者も少なかろう。だからこそ身動きが取りにくい。不完全な異界の魂から、完全な異界の魂へと標的の変換を誰かに命じられれば一も二もなく動き出せる自信はある。だが、それを命じる者はいない。

 身動きの取り辛い現状に忌々しく思い舌打ちすると、目標が動くのを感じた。当然、その目標とはリトル・スノーである。能天気にも、一人で見晴らしの悪い森の中を散歩しているらしい。見晴らしが悪いのでこちらは尾行に最適なのだが、散歩には最適とは言い難い。もっと手入れの行き届いた小高い丘や、町外れの草原などがあるだろうが、敢えて女性は森を選んだ。

 物好きな女だと呆れながら、少年は音もなく尾行を再開する。女性は気づいていないらしく、だが楽しそうに、不慣れな森の中を歩いていく。

 狙われているはずの獲物は、そんなに嬉しそうな表情はしない。だから彼はその女性に対し、違和感を持った。自分が獲物であると分かっていないこともあるが、大体詳しくもない土地に一人で行けば、特に大人しい女性であれば尚更、足取りは慎重で、表情も硬くなるものだ。帰りの道を覚えておくためにも、頻繁に周囲を見回す。なのに、この女性は違う。まるで歩くことそのものが遊びであるかのように、何でもないことを楽しんで、前方しか見ていない。

 何が楽しいんだと不気味に思いながら見ていたラウールだが、それに答えるように、女性が楽しそうな足取りを止めた。

 何かあったかと彼も動きを止めると、女性が初めて表情を変えて周囲を見回す。尾行がばれたかもしれないと思うと、彼は密やかに骨のある相手かもしれないと興奮し、またばれてしまう自分の未熟さに内心舌打ちをした。

 身動き一つせずに女性の次の動きを待っていた彼に、女性の優しげで心地良い響きの声が聞こえてきた。

「ごめんなさい、この近くに、池か湖ってあるのかしら」

 あまりにも能天気で、且つ自分の存在などとうの昔に分かっていたかのような発言に、彼は内心大きなため息を吐いた。ここまで来ると、相手が純粋なだけに尚更、馬鹿にされたような気分になる。

 そして暫く考える。その問いに答えてやり、それから単刀直入に自分に着いて来るように言うか、それとも無視して再び歩き出すまで待つか。

 普段ならば後者だが、あの堂々とした声の掛け方から考えれば尾行が向こうには確実にばれている可能性も高い。となると、時間の無駄である。このまま隠れているのもいいが、それで自分の位置すら特定されてしまえば、自分の尾行術が如何に稚拙であったかを教えられてしまう。それは少々、否、かなり傷つく。だが、自惚れるよりもその方がいいのではないのかと思う自分もいた。しかしいつの間に、そんな体育会系の努力一辺倒な思考が自分に染み付いたのか、自分で呆れもする。

 形だけはのんびりと、しかし気持ちは張り詰めたままで考えを巡らせる。そして、結局のところやり過ごそうと無視を決め込んだ彼の全身が、軽く揺れた。

 確かに滑りやすいかもしれないが、それでも支えとなる箇所はしっかりしていると思っていただけに、その揺れは衝撃的だった。声を出してしまいそうになり、慌ててしっかり体の支えとなる箇所を両手で持つと、その真下に真っ白な細身のドレスを着た女性が見えた。

 リトル・スノーは木の太い枝に座ったラウールと目が合うと、当然の挨拶のように微笑み、幹から手を離した。

 そのあまりにも邪気のない笑みに、逆に嫌がらせに近いものを感じ取った彼は、軽く眉を吊り上げてため息を吐く。それから、女性の眼前に軽い音を立てて降り立つ。

 眼前で繰り広げられることとは言え、曲芸師のような素早く無駄のない動きに女性は軽く目を見開いて、それから再び無邪気に微笑んだ。

「びっくりしたわ。そんなところにいるなんて、最初は気付かなかったから」

 結局気付いたんなら、褒める意味などありもしない。

 それは逆に侮辱になると悪態を吐きたかった彼ではあるが、悪意が全く感じられない人間にそんなことを言ったところで否定されるに決まっている。それは学園在学中によくよく学んだことだった。

 ため息を吐きたい気持ちを抑えながら、まだ微笑んだままの女性を一瞥する。無防備で、華奢で、苛立つほど穏やかな表情をしていた。何故そんな顔が意味もなく出来るのか、不気味だとも思った。

「なぜ気付いた」

「考え事をしている人は見つけやすいの」

 意味の分からない返答だった。だが、その意味を追求するつもりはないし、そこまで喋って何らかの関係を持ちたくない。

 先程の質問に答えればいいだろうと思うと、彼は小さく顎で北西のほうを指した。

「湖ならあっちにある」

「そう、ありがとう」

 答えてくれた礼としての言葉は、案外に丁寧な物言いで告げられた。軽く微笑みながら頭を下げる女性を見て、自分の出番が終わったことに安心の吐息を漏らす彼ではあるが、女性は動こうとしない。それどころか、微笑みを掻き消して少し不思議そうな目でじっと彼を見ている。――嫌な予感がした。そういう予感は、悲しいながらよく当たる。そんな第六感の発動は、命の危機に瀕したときぐらいにしてほしいものである。

「暇なら案内して貰いたいけど、大丈夫かしら」

 控えめに、しかし懇願を感じさせてそう頼んでくる女性に、彼は予想通りの言葉だと目を据わらせた。

 しかし、これは当然絶好の機会でもある。だがそれは命令あっての機会であって、今は単なる馴れ合いでしかない。断っても受けても、どちらでも構わないだろう。

 ならば彼が取るのは一つしかないし、迷うつもりもない。この女性がいかに美しく、優しげであろうが、そんなことは彼の心に一つたりとも響かなかった。それだけで心を許すほど、彼は単純に出来ているつもりはない。

「断る。そこまで馴れ合いたくない」

「そう。残念だわ」

 笑顔には変わりないが、それでもほんの少し寂しそうなものを含んでリトル・スノーは頷いた。しかし、無理強いをするつもりはないらしい。その態度に、彼は内心安心した。これで学園時代の赤毛の少女のように、強引に引っ張られてしまうなどがあったら不機嫌どころではない。この女性が相手なだけに、そうされれば憎悪すら抱くだろう。

 しかし女性はこの場をすぐに立ち去り、湖の方向に向かうつもりはないらしい。少なからず油断していた彼を表情の見えない目で眺めた後、ほろ苦く笑った。

「わたしを浚う?」

 苦笑のままで言うにしては、なかなか物騒な言葉だった。だがそんなことは気にもせず、少年は眼前の女性のほうへと顔を上げる。油断していた自分を馬鹿だとせせり笑い、同時に 女神のようなこの女性の化けの皮が剥がれたかもしれないことに密やかに喜び、ゆっくりと神経を研ぎ澄ましながら女性を見た。

 自分以上に気配に敏感らしく、そしてまた得体の知れない嫌な感覚を持つ、一見すれば物語の姫君のように儚げな女性。異界の魂という言葉が有名になったのもこの女性の影響だし、彼女が持つ力も一応は知っている。手ごわいと思っていたアキラ以上に強いクリングゾール――あの男より更に強いかもしれないことも知っている。そんな強敵を相手に、自分が敵うのか。そんな化け物を相手に、自分が任務を遂行できるのか。

 強い奴と戦いたいなどという、血気盛んな思想はラウールには持っていない感情のはずだった。しかし、任務に対する障害は大きければ大きいほど達成感があると感じてはいた。ただ障害が大きければいいのではなく、その任務を達成し、また直々に報告しに行く余力が残っていなければ意味がない。生き残った上での任務達成が第一であり、無様に任務達成のみ、障害を潰すことのみに血道を上げるなど以ての外。だが、確かに手ごたえのあるものとぶつかることは心地良く、自分が幸運だとすら思ったことはあった。

 女性が始めから全力を出すとは思えない。しかし、抵抗しないはずはない。となれば、むこうが本気を出す前にこちらが拘束するのが手となる。いつもそれが妥当なやり方となるが、その分、自分の得意なやり方になってもいる。相手より早く仕留める自信はあるが、その自信をへし折るような相手に出くわすことを密かに望んでいることも事実だった。

 だが女性は、少しずつ戦闘態勢に入っている彼とは違い、陰を持った笑みを浮かべた。彼を憐れんでいるわけでもなさそうだが、自虐的なものとは思い難い。

「そんなに彼らはわたしを望んでいるの?」

「さあ」

 短く返事をしてやる。相手が抵抗しようとした素振りを見せれば、いつでもその細い首に向かって飛びかかれるように。

 しかし、女性は抵抗するつもりはないらしい。神経を逆なでさせるような、悲しげな笑みを宿したままだった。

「裏切ったのに、困った人たち…」

「もっと酷い方法も取れたはずだ。そうしなかったお前が悪い」

「そうかもしれないわね」

 だからその非道になりきれなかった釣りが、ここで返ってきたわけだ。不幸な異界の魂を二人も作り上げたその責任を取るのなら、黙って取ってほしいものだった。

 間合いを詰めようと構えるラウールを、リトル・スノーは見返す。その笑みに、少年は笑いたくなった。女性が自分に向けるものは、死者に向けるような、穏やかで、どこか見下したようにも見える笑みだったからだ。

 そこまで憐れむのなら、全てに憐れむつもりでいればいい。そうやって利用されてしまえば、きっと誰だって幸せなはずだ。自分の不幸に酔い痴れる女なら尚更、そうなっているのがよく似合うだろう。

 脚が動く。伸ばされたゴムが障害をなくし、弾けるような力強さを持って。当然、女性は彼が詰め寄ってくる姿を視線で追うだけしかできない。それは彼にとって予想内の範疇だ。それどころか急に襲い掛かってきた自分に抵抗する素振りを見せるとしたら案外普通の女だったと幻滅しただろう。

 そして、女性は少年の期待に答えた。

 二人の間はそう遠くはないし、近くもない。だから、彼が女性のもとに近付くのも瞬きするほどの間だ。そしてその間に、彼と女性の間には壁が生まれていた。

「・・・・・っ」

 勢いよく振りかざされた細身の仕込み刀が、軽く彼の手のひらに食い込んだ。柄の部分であることが幸いだったが、それから伝わる衝撃は鉄より硬く重い。

 何の音もしなかったにも関わらず、女性の首を狙った小刀が虚空の中で止められていた。

 女性は瞬きもせずに彼の動きを見ている。その表情は先ほどのものと一切変わらない。しかし、それは彼にとって神の目のようにも感じた。弱く儚く、生まれ変わったとしても自分に及びつかないものを見る無慈悲な瞳。ただ生半可な同情しか出来ない、見下すことすら虚しくなるほどの弱さを持っているものがそこに存在するさまを見ているようだった。

 一端その細い刀を引くと、ラウールは跳躍し、女性から大きく距離をとる。ここで無駄だと悟ることも可能と言えば可能だろうが、それでは少しあっけなさ過ぎる。もう少し抵抗を試みてから、諦めたい。今が急襲の絶好の機会であるだけに、その思いは一入だった。

 そんな彼の心情を慮ったのか、女性は大きくため息を吐いた。

「あなたに話しかけなければよかったみたいね」

 そんなことは今更言っても無駄だ。

 声に出して答えてやらずに頭の中でそう悪態を吐くと、女性のため息がまた聞こえてきた。

「あなたを傷付けると、わたしはすぐここにいられなくなってしまうの。だから諦めて」

「お前が無抵抗で捕まればいい」

「それもだめ。ルネージュの上層部には、特に知られてはいけないの。そういう決まりだから」

 それについて彼は、それはおかしいとか、理不尽だなどと言うつもりはなかった。制約や決まりごとがあるのは、それがどんな人物に対して理不尽であったり不可思議なものでも受け入れなければならない。それが組織に組み込まれた者の最低限の決まりだ。彼もその中で生きているのだし、決まりは絶対でもあるために妥協しようとも思わない。だが、それは自分の話だ。

「ならお前のほうが妥協すればいい。こんなところで僕に声をかけた時点で、お前にはその責任がある」

「それも決まりなの。人にはなるべく声をかけなければいけない。懇意にならなければいけない」

 さすがにそれには彼も眉をしかめた。だが、それについて彼がとやかく言う筋合いはない。そういう相手側の制約なのだと言い聞かせる。しかし、何故そんなことをするのかという疑問が、彼の脳裏から瞬く間に消えることはなかった。そんな彼の考えを再び見抜いたらしく、女性は苦い笑みを浮かべて答える。

「そのほうが、別れ際が辛くなるでしょう?」

 ふざけた答えだと、彼は呆れた。女性は笑ったままで、彼の心境に答えるように更に言葉を続ける。

「わたしは辛くなるのが仕事なの」

 それは実に大変な仕事だが、それに協力してやる義理はない。もともと、義理など求めていない彼には特に意味がなかった。

 まだ敵意を持って女性の隙を突こうとする彼を説得できないと諦めたのか、女性は彼には聞き取りづらい小さなため息を吐くと、疲れたように手近にあった大木にもたれかかる。

「あなたが諦めるまで付き合うわ。だから、今ここで諦めて」

「断る。早く諦めさせたいんなら、僕にその力を見せろ」

「そう」

 女性が短く頷いたその瞬間、彼の背中の筋肉が焼けた。実際には、そう錯覚してしまうような衝撃が走った。それは背中から痛みが伝わったわけではなく、むしろ麻痺に近い。

 しかし、彼には分からない。そうなってしまう原因が分からない。何かに触れた感覚もなく、故に何かが自分を襲ったわけでもない。魔法を掛けられたのなら、それならそれでそんな感覚は持つ。ならば何だ。幻でも見せられたのか。否、見せられたのではなく、感じさせられたのか。しかし、そんな魔法にも感じなかった。直接的に相手を麻痺させる魔法はあっても、相手はきっと何もしていない。勝手にこちらがそんな気持ちになっただけだ。では、一体何故そんな感覚に――?

 ほんの一瞬のことで、彼自身何があったのかも分かっていない。だが、吹き出る汗は冷たく、身体は芯から冷たく、肉体は動くことすら不可能。心すら衝撃に麻痺しているようだった。それはつまり、麻痺ではなく恐怖しているということだ。誰に対してか、何についてかは分かっている。分かりすぎている。

「じゃあね」

 女性は何でもないように微笑むと、彼に背を向けて更なる森の奥へと入っていった。それを見ても、彼はその背中を追うことは出来ない。そうさせられたのだ。女性に。どうやってかは分からないけれど。否、分かりたくないけれど。

 ただ、彼は自分に背中を堂々と見せながら奥へと進んでいく女性を、信じられない気持ちで見つめていた。自分を殺さないのか、と心底不思議に思い、殺されないことを奇跡だとすら思った。言ってみれば彼の身は、鎌首をもたげた青大将に狙われる鳥の雛。両者の力の差は圧倒的なのに、生きる機会を与えられた我が身のほうを疑った。

 唖然と見つめる彼の視線に、女性は振り返ろうともしない。別れの挨拶をしたその顔すら直視できなかったことを思い出すと、彼は首筋に濡れた何かが張り付くような冷気を持った。怯えているのだ、単純に。あの女性を心底怖いと思い、恐れをなしている。それまでは相手の実力を見極めてやろうと挑発的に考えていたのに、今ではそんな自分がどうしようもなく愚かしく見えた。

 女性の背中が完全に彼の視界から消えると、今まで石像のように動かなかった彼がようやく大きくため息を吐いた。そして俯きながら地面に腰を下ろすと、先程までなかったのに、今はいつの間にか出来ていたものに気がついた。

 彼が構えていたときの背中の線を囲むように、綺麗な円形の穴が開いている。穴は拳ほどの大きさで、その穴の深さは分からないほど奥まで掘られているらしい。しかし土はどこに運んだのか、とぼんやりと彼が考えていると、ふと彼の首に故郷の海風よりも冷たいものが吹き付けてきた。

 覚えている。分からなかったけれど見せ付けられた。そうだ、あれは証拠だ。あの女の、化け物のような力を見せ付けられた証拠だ。傷つけずに、自分の力を示す方法がこれだ。

 一瞬で天から降りた青白い輝きが、彼の背後を囲うように放たれた結果がこれだ。触れればそれなりに硬い土と分かるのに、周囲に焦げ目すら付けないまま一瞬で焼きとってしまった。否、焼いたのかどうかも分からない。ただ天上からの細い閃光は、大地を瞬きもしない内に消失させる力を持つ。それを、自在にあの女は操れる。その力を誇示しようともしない偽善者の顔で。考えただけでも酷い道化だった。

 その証拠となった穴を見ながら、彼は力なく笑い声を零す。本当にあの女を諦めることが出来たことを、悔しいと思うより心の底から助かったと思ってしまう自分に対し。

 それと同時に思わされた。あんな力を持っているならば、なるほど、神のような同情しか出来ない目をして当然だろうと。

 

 

 その日は少々退屈だった。遠くのダンジョンに行かない日は少なくはなかったし、街で留守番代わりに時間を潰すことは辛くはない。だから、小高い丘や草原にピクニックに行ったり、図書館で本を読んだり、他愛もないお喋りをしたりすることでいくらでも時間は潰せるものと思っていたし、現にそれを実行していた。

 だが、何をやっても退屈に感じてしまう日がないのかと訊かれれば、苦笑しながらあると同意しあうような気分にはなったことがある。それがその日だった。

 外に出るには少し暑く、日影の下でも風がないことが分かって辛かった。かと言って、広いとはいえない個室で何人も集まってお喋りをするのも億劫だ。ここで活発なミュウたちならば水遊びなどに興じる行動力はあるだろうが、生憎彼女たちにはそんな時間はなかった。献身性の塊である彼女たちは、その準備をする時間と、満足するまで遊べる時間がないということに気付いたのだ。何の準備だと言われれば、着替えを持って、冷たい飲み物を作って、軽食を作って、水遊びで休憩するに適したところを探す時間である。さすがにそこまですると、いざ外に出ようとするときには夕方に近い、ということもある。そうなれば、心底遊び疲れるのは夜中になることは絶対だ。夜中まで教員や仲間たちに無断で出かけるなど、真面目な彼女たちは考えられないことだった。伝言をしたとしても、心配をかけるかもしれないと思うと純粋に楽しめそうにない。

「なら、今日はお昼の軽食を、わたしたちで作る、というのはどうでしょうか」

 ホルンの提案に、全員が顔を明るくしながら頷いた。普段は街中の店で購入している場合がほとんどである。しかし、作るとなると時間はある程度掛かるが、退屈はしないし気軽に楽しめる。皆で作れば、片付けの時間も短縮されて迷惑をかける時間も少なくなるのではないか。そう結論に達すと、また暇の潰し方が増えた、と嬉しいんだか悲しいんだか分からないことを、皆で苦笑し合った。

 それから、今度は何を作るかということに頭を寄せ合う。筆頭には自然と料理が得意とするネージュとなった。

 まず、本格的に重いものは駄目だということは早々に全員一致した意見だった。夕食の楽しみをなくてしまうからだ。それに、彼女たちは自然な会話の潤滑剤となる程度の食事を好む。食べることに一生懸命になるようなものはいらないので、食べにくい豪華なものも除外される。しかし、軽すぎる甘いものばかりというのも困りものだ。甘いものは好きだが、それにだって限度がある。

 普段は大人しいが、自分の主張に対してはなかなかの情熱性を発揮した少女たちの意見を何とか纏め上げると、ネージュはメモからペンを離してメニューを音読した。

「キッシュ、ハム、キュウリ、卵を組み合わせたサンドウィッチ、スコーンにマドレーヌとマカロン。マドレーヌとマカロンには半分ずつチョコレート入り。それから、飲み物は紅茶…で、いい?」

「ええ。それで充分です」

「聞いただけでも美味しそう…」

「そうね。なら女将さんに台所と材料を借りていいか、お願いしに行きましょうか」

 メニューを考えただけでも満足げなグリューネルトとホルンとは違い、現役の学生ではないフレデリカはなかなか行動的だった。早速立ち上がる彼女に釣られて立ち上がると、ネージュはとあることに気付く。

「・・・・・勝手に材料をわたしたちが使ってしまっていいのかしら。後で使った分は買い足しに行きますって、言ったほうがいいわよね」

「そうですわね。あの方たちは私たちと違い、生活がかかっています。忠告される前に、私たちで言いましょう」

「夕食にその材料で料理をする、なんてことになったらゆっくりしていられなくなるわ。食べたらすぐに市場に買い足しに行かなきゃ」

「そうなると、暇だなんて言っていられなくなりますね。それどころか、買い足しから帰ってきたら、へとへとに疲れてしまって、二度とこんなことをしたくないと思うかも…」

 ホルンの言葉に、他の少女たちが本当だと笑う。しかし、それこそが求めていたことでもあるので、彼女たちは密かにそれを期待していたりもする。何にせよ、この長い旅の中で退屈にはなりたくなかった。こんなに沢山の仲間たちと遠出することなど、きっとこれきりなのだから。

 急に冷たい潮の香りがする綺麗な背中の青年を思い出し、ほのかに頬が赤くなったが、ネージュはそんな自分を無視する。どことなく不満足げで、輪の中から抜けたがっているような目をする少年を思い出し、旅の目的は、そんな甘くて個人的なものではないのだと自分に言い聞かせた。

 それから皆で階段を下りて行くと、そこにはここ十日ほどその場所で過ごすことが習慣となっているらしい女性が、やはり習慣となっているらしい分厚い歴史書を読んでいた。背表紙から見るに、第二次大戦を人間側から克明に書いた歴史書だ。何でも、大陸全土の学者たちが終戦後に集まって自分の国がどうやって侵略し、侵略されたかを報告し合ってそれらをまとめ上げ、出版されたものらしい。つまり、最も真実に近い第二次大戦の歴史書となるわけだ。

 そういえば、この女性は第一次大戦以後のものを重点的に読んでいるようだとネージュは気付いた。やはり、自分が生きていた時代は思い出したくないのだろうかとも考える。

「こんにちは、スノー様」

「こんにちは」

 彼女の後ろにいたグリューネルトとホルンが会釈をする。それに改めて彼女たちに気がついたらしく、女性は顔を上げて彼女たちのほうに微笑んだ。

「こんにちは…どこかに行くの?」

「いいえ。今から、みんなでお昼を作るんです」

「それで女将さんに、材料と厨房を貸して貰いに頼みに行こうと思って…」

「そうなの。女将さん、今夕食の献立考えているらしいから、何を食べたいか言ったら、ちょっとは頼みやすくなるかもね」

 急にそんなことを言う女性に、彼女たちは少し驚いたが、すぐに気付いた。きっと、女将はこの女性に献立は何がいいか聞いてきたのだろう。それに便乗させて貰うかたちになるのは少し失礼かと思ったが、女性の助言を彼女たちはありがたく受け取った。

「なら、言ってみますね」

「幸運を祈るわ」

「はい。上手く出来たら、スノーさまにお裾分けしに来ます」

「それはとても楽しみ」

 本当に期待するように微笑む女性に、彼女たちと女性は笑いあった。反面、これで失敗は出来ないと多少プレッシャーを感じたが。

 

 厨房と材料を借りることに見事成功した四人は、早速ネージュの指示の下動き出した。

 必要となる材料とその量は全て確認済みである。さすがに一日で三、四十人分の量を作る宿だけあって、自分たちが材料を拝借しても全く問題がないように感じた。だが、彼女たちは律儀な性格のため、買い出しに行くことはすでに決定事項となっている。

 まずはキッシュの生地作りに取り掛かる。全員、お菓子程度の料理の経験ならあるが、パイ生地までは作ったことがないらしく、ここは全面的にネージュの担当となった。冷めても美味しいマカロンは先に作っておいても大丈夫だろうということで、他の少女たちも黙々と他の作業に取り掛かっていた。湯煎とゆで卵用のお湯を沸かしながら、片方ではチョコレートを刻み、片方では粉を篩いにかけている。どのお菓子にはどれだけのバターや牛乳が必要なのか、真剣に計量カップを睨み付けて区分する少女も忙しそうだ。

 女将に借りた揃いのエプロンがひらひらと揺れ、彩りが全くなかった静かな厨房が、急に可愛らしくも微笑ましい色彩を宿す。

「これは、こっちでよかったかしら?」

「確かそう。それで、卵は…」

「材料冷やしたほうがいいのはどっち?」

「スコーン」

 一気に賑やかになった厨房に、少女たちは嬉しそうに共同作業をする。それを厨房の最も奥で見渡していたネージュの口元も、当然のように笑みを浮かべていた。それから粉とバターを混ぜ合わせる過程が終了し、卵黄と塩と水を混ぜていよいよ生地作りの集中力を要する箇所に来ると、足が誰かに軽く踏まれかけた。

「ふゃ…!?

「え?」

「どうかした?」

 沸かした水の蒸気が見え始めたせいか、溶け掛けたチョコレートを手早く刻んでいたフレデリカがネージュのほうを横目で見る。ホルンやグリューネルトも同じく、急に奇妙な声を出したネージュに視線をよこすと、一気に視線を集められた彼女のほうがきょとんとした。

「・・・・あの、誰か、足、踏まなかったかしら」

 誰か、と言っても、ネージュは他の三人と違うテーブルで作業をしていた。氷水を入れたボウルで作業をしていたネージュのパイ生地は、竈には最も遠いほうがよかろうと思っての配慮である。もうなめらかな手触りになってきつつあるチョコレートを刻み終えたフレデリカも、まだ一つ目のボウルに粉を篩い続けているグリューネルトも、お湯を別のボウルに分けていたホルンも、彼女の足を踏める位置にはいない。

「気のせいじゃ、ないんですか?」

 笑い飛ばすわけでもなく、訝しいと思っているわけでもなく、周囲を十分に見回し、ホルンがそう恐る恐る口にする。

 まさかこんなところで幽霊が出たなど、今まで聞いたこともない。そもそも、そんなことなら宿屋などないだろう。それに、ネージュは大人しいがぼんやりとしているような性格ではない。だが、彼女が足を踏まれたことが現実であったとするならば、犯人はどこにいることになるのだ。

 楽しそうな雰囲気から一転して、暗幕が降ってきたかのような急さで静かになった厨房に、気まずい空気が流れる。

「うん、そう、よね・・・・・」

 この空気を元のものに変えるべく、すばやく頷いて作業を再開しようとしたネージュは、自分の足元に何かを見た。恐らく彼女の足を踏んだ犯人である、灰色の、毛並みの塊を。

 ちょろりと逃げていくピンク色の長い尻尾を見て、彼女は恐らく幽霊に遭遇するときよりも青い顔で叫ぶ。

「・・・・ネズミ!!

「いやぁああっ!!

 彼女の言葉を聞いた瞬間、他の少女たちも自分の持ち場から離れて一気にネージュがいたテーブルから遠ざかるように逃げる。何度もモンスターと戦った経験がある彼女たちでも、さすがに家庭の敵には免疫がなかった。たとえ今まで倒してきたモンスターのほうが気味が悪くても、それとこれとは別の問題だ。

「きゃぁあああっ」

「いやっ、や、っ、やぁああ!!

 持っていた包丁やら篩やらを放り投げ、すぐさま厨房から逃げ出すように出入り口へと固まる。誰も指示したわけでもないのに、自然とそちらに必死になって逃げ、一番奥にいて一番入り口から遠かったホルンがフレデリカにしがみついた。

「よかった・・・・」

「だい、じょうぶ?」

 もともと性格的に似たような少女たちが集まってはいるが、本人たちはまさかここまで友人と自分の行動パターンが似ているとは思わなかったのだろう。驚きながらも、こんな行動に出てしまったのは自分だけではない、と安堵感を持ってお互いの顔を見回した。

 だが、それも悠長にしてはいられない。無人となった厨房に、鼠が隠れ潜んでいることは確かなのだから。

 不幸なことに、その鼠の位置はよく分かっていなかった。竈の上で白い湯気が活発になっていることは分かるが、言ってみればただそれだけだ。ドアから覗き込む以外のことは全く出来ない状態にある。

 竈の火が踊る音と、その上の水が熱湯となって天井に舞い上がっていく様子が見られる。そこに鼠が躍り出て、熱に中てられ竈の中に投身自殺でも図ってくれればよいが、それはそれで後気味が悪い。正直、軽食を食べるどころではない。だが、ここで鼠にチョコレートやバターやミルクを好き勝手に拝借されるのも腹立たしく、かと言って殺す気にも追い払う気にもなれない。

 遠隔操作の魔法でもあればいいのにと思いながら全員がやきもきしていたが、それが可能かもしれない人物が一人いたことに気がつくと、全員がその方向へと目をやった。当然、その人物とはホルンである。当の彼女は視線を感じ、何となく言われそうなことを予測して、慌てて首を振った。

「あの、無理ですから。第一、姿が見えてないし、飛び掛られると恐いし、それに、集中力がいるし…」

「けど、試してみる価値はあるんじゃないかしら」 

 珍しい生き物を保護する立場にあるはずのフレデリカがそう言うと、鼠など見たこともないかと思いきやあったらしいグリューネルトも深く頷く。

「何も殺す必要はありません。追い払うだけでもいいんです。お願いします、ホルンさん」

「けど、あの、それこそ、追い払えと命じるだけでも、どうなるか分からないんです。鼠を追い払うために、竈の火が外に燃え移るかもしれないし、家具が動くかもしれないし、材料が鼠に覆いかぶさることになるかもしれませんから…」

「その辺りの指定はできないの?」

「はい、具体的で複雑な命令は無理です。単純に、止まれ、とかなら、出来ないことはないんですけど…」

「ならそれで!」

 一も二もなく頷いた少女たちではあったが、ホルンはそれでもまだ困惑したような表情のままだ。

「けど…でも、それだけで、鼠をここから追い出すのは、誰がするんですか?」

 それに、全員が押し黙った。確かにその問題はある。鼠がぴたりと止まったところで、いつまた動き出すか分からないし、ホルンに鼠を止めることだけに集中力と魔力を割いてもらうのは気が重い。かと言って、追い払ってくれそうな第三者を呼んでくるのも時間がかかるし、それでいつの間にか逃げられては意味がない。

 全員が何もいえない状態のまま、ただ厨房から聞こえてくる竈の活動中の音と、鼠がいるらしい微かな物音だけが響き渡る。

 このまま、軽食作りはやめにしようかと誰しもが思った時に、ひょっこりとそのひとは顔を出した。

「どうかしたの?」

 不意に聞こえた優しい声に、少女たちは思わず顔を上げてそのひとを見ようとし、しかしその手に摘まれたものに息を呑んだ。

 彼女の活躍した戦時中に、この光景など誰しも見たことがなかろう。単純に手の中にいるそれに驚いた彼女たちではあったが、それからこの奇妙な組み合わせに気がつくと、別の意味で目を白黒させた。

 相変わらずの清楚な印象を身にまとうリトル・スノーの手に、ネージュの足を踏んだらしい鼠の首を固定するように捕らえていることなど、誰が思ったことだろう。当然鼠は必死に抵抗しているが、案外にリトル・スノーはしっかりと首を締め付けない程度に持っているらしく、鼠が激しい抵抗を繰り返しても全く逃げられそうになかった。

 しかも鼠はそこそこ大きいらしく、女性が両手でしっかり持っていても体は完全に隠れない。鼠が暴れるせいで、女性の白いドレスが尻尾にやたらと揺らされていた。

 まだ口が利けない状態の少女たちに、女性はいつもと変わらず微笑みかけた。否、ほんの少し、悪戯っぽく見えたかもしれない。

「ああ、これ?さっきそこから出てきたの。ごめんなさいね、すぐ窓の外に逃がすから」

「は、はい」

「お願い、します・・・・・・・」

 何ともないように鼠の首を持ちながら頷き、颯爽と食堂の窓のほうへと向かっていく女性の後ろ姿を見ながら、彼女たちは大きく長い感嘆の息を吐く。そして豊かな白銀の髪の女性を、いつもとはまた違った尊敬の思いを含めて見届けていた。

 

 

 鼠を逃がした後、何時間か経ってから少女たちにお手製のお茶請けで茶話会に誘われた女性は、にこやかにそれを受けた。

 本来ならばお裾分けを受け取るだけで充分だったが、彼女たちは鼠をこともなげに素手で捕まえた女性に改めて感動したため、同じテーブルを囲みたいと言って来たのだ。当然、茶話会では女性の度胸を誇大と言ってもいいほど褒め称えられ、女性はそれを聞いてむず痒い思いで首を振った。

 あなたたちもモンスターと戦ったことはあるでしょう、と尋ねても、それとこれとは別なのだという。そんなものなのかと、今の若者たちの価値観の違いに驚かされたが、そこまでこの世界に馴染んでしまっている自分に、改めて驚いた。

 もう、この世界だけが自分の価値を見出される世界でしかないのだと思ったのは、これで何度目だろう。相手に望まれてそう思ったことは数多くとも、こうやって間接的に思い知らされ実感することは数えるほど少ない。

 じわりと襲い来る痛みに耐えながら、女性は再び茶話会の出来事を思い出す。精神的なものであれ、肉体的なものであれ、痛みから気を紛らわすのは慣れている。慣れたいと思ったことは一度もないし、慣れているという自覚は持ちたくもないが。

 女王だからそんなことはしないと思っていた、と実に純粋な調子で言われてしまい、実は自分もだと告白した。鼠の本物を見るのも触るのも当然これが初めてで、だからこそ害があるとは知っていても、好奇心が勝った。哺乳類だから、一見しても虫ほどの生理的嫌悪は持たない。好奇心はあるものの、不潔な印象はやはり持ったので、逃がした後はしっかり井戸水で手を洗って、また本を手に取り、鼠を触った手など意識もしなかった。

 だから、そんなことで尊敬されるとは思ってもいなかったのだ。自分のもう一つの世界に置き換えてみて、確かに黒いほうのアブラムシを素手で触れる人間は尊敬に値するなと笑う。ただし、その笑みは痛みに引きつっていたため、他者から見れば楽しそうには見えないだろう。

 ベッドに背を預けても、痛みはまだ引かない。そんなことは分かっている。眠るだけで引くような痛みなら、どんなにいいことか。

 逃げられないがどうしようもない痛みを気にしないように、女性は目を瞑る。瞼の裏に映るのは、昼間の少女たちの輝かしく魅力的な笑顔。恋愛や、将来の夢や、今抱えている悩みや世間のあり方について、ときに真剣に、ときに茶化しあって喋り合う、言葉でじゃれあう気のいい友だちとして互いを見ていることがよく分かる。現状に満足しながらも、未来もいいものであればいいと、当然だが贅沢な望みを持つ明るい笑顔を全員が持っていた。――それを見て、女性の心が一瞬陰る。

 痛みのせいで嫌な感情に走ってしまえば、それだけでこちらの負けだ。否、最初からこちらは負けるためだけの存在。抗えないこのシステムから、なるべく負けを、制限時間いっぱいまで引き伸ばすのが目的。

 だから彼女たちを恨んではいけない。憎んではいけない。妬んではいけない。彼女たちは自分と違い、純粋で本物の未来があるのだから。もう、自分は彼女たちと別の生き物であることを自覚しなければならないのだ。

 ―――きっとあの子の近くに来ていたなら、そんな感情は吹き飛んで、ただひたすら相手の幸せだけを願えるだろうに。

 そこに連れて行ってくれないことに苛立ちながら、けれどそれでよかったと納得しようとしている負けず嫌いな自分がいる。ああそうだ、自分は案外負けず嫌いだったと、可笑しくなりながら寝返りを打つ。

 心の底にはもう一つの心配事があるが、きっとそれも大丈夫だと自分に言い聞かせる。あのひとも負けず嫌いだから、きっと我慢してくれているのだと言い聞かせる。焦ればあちらの勝ちなのだから、根拠はなくとも自信を持たねばならない。

 もう一度強く瞼を閉じると、女性はブランケットを頭から被る。痛みに耐えるその指は、夜闇の中でも気味が悪いほど白くきつく、それを握り締めていた。

 

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