Hello, a low Queen.

  

  ――あと十八日。たった十八日。まだ十八日。

 相変わらず、ベッドの中で目を覚ましても起きる気は全くしない。ただ意味もなく、眠気もなく寝転がっているだけの時間が増えた。とは言ってもそれは実際のところ五分か十分ほどのものなのだろうが、部屋から出ることが億劫ではあるものの、退屈な彼には長い時間だった――この世界には分単位の時計がないお陰で、他者より少し遅れて起きる程度に思われることはいいかもしれない。

 理由は言うまでもなく、考えるまでもない。今はただ、あの華奢な肩と白銀の髪を頭の中で思い出すだけでもどろりとした苛立ちが浮かび上がってくる。人の姿を思い出しただけで胸焼け気分が味わえるだなんて、ある意味では実にあの女性は貴重な存在だ。

 寝飽きたのでもう一度、ゆっくりと指を折って数えてみる。

 最初に自分と会ったのが一日目、ミュウたちと買い物に行ったのか二日目、そのミュウと仲直りしたのが三日目、ル・フェイやアルフリードと楽しそうに喋っていたのが四日目、チョコが本を運んだと言っていたのが五日目、戦闘中に空夜たちから昨日の話を聞いたのが六日目、レンが女性と頻繁に相談するようになったのが七日目――。一日毎に思い出す度に苛立ちは増し、そんなことを毎日飽きもせず数え覚えている自分に更に苛立つ。分かっているのだ、こうならないためには無視すればいいと。認めてしまえばいいと。けれどそれができない。しようと思ってもできないし、すれば負けだと意味の分からない勝負が自分の中で始まっている。幼稚で、結局は敗北感しか味わえないくせに何故勝負しようというのか。何の勝負をしようというのか。

 冷静に考えれば考えるほど、自分の幼稚さは身に染みて分かる。けれどそれを一蹴しようと喚き散らす自分もいる。そんなことは自分の勝手だろう、と開き直っているものの、その自分だって勝つ気なんて全くないのだ。かと言って、負けるのは嫌だ。相手があの女性だからではなく、結局自分の負けを認めたくないだけなんだと思い知らされる。チキュウにいたときからそうだ。負けるのならば自分の体調不良で負ければ納得できた。真っ向から負けるなんて屈辱の極みだ。そしてその屈辱を受け、結局剣道そのものから逃げ出した。今とそう大して変わらない。

 だから答えは見えていた。そう、結局のところそんなことを気にする自分がいけないのだと、理屈では分かっている。だが、理屈など感情の前では低い塀にしかならない。それでも冷静な自分は分からない。冷静な自分は冷静に想像し、感情的な自分に言葉をかける。

 ――なら、俺は、あの女に全く敵わないんだと、心が壊れてしまうほどこてんぱんにされれば気が済むのか。

「そんなこと、ない」

 むきになった自分の言葉が声になって現れる。彼の心は実際、感情的な自分が勝っていた。冷静な自分が勝るのは戦闘時。そのときだけは憂鬱を忘れることができるから、死ぬかもしれないことは怖くても最近はずっと積極的に遠出の戦闘に加わるようにしていた。死にたくないという気持ちはある。けれど、それよりも長く続く自分の中の醜い感情を直視するほうが辛い。そしてそう思うことで、自分を醜く見せたくない自分にも気がつく。人のためではなく、自分のために偽善者でいたいなんて最悪だ。

 頭から被っていた布団を、冷静に矛盾を指摘するもう一人の自分のように引き剥がす。いらないわけではない。用はそれを使い分ける場の問題だ。

 そうやって布団と一緒に剥がれた冷静な自分を無視しながら、ようやくベッドから降りる。ありがたいことにシロはまだ眠っていたらしく、饅頭のような腹を出していびきをかいていた。それを見て脱力すると、まずは白いひよこ虫を起こすことからアキラの普段の生活が始まった。

「起きろよ。朝食置いてくぞ」

「むぁっ!?ひ、ひどいっち!最悪な起こし方だっち!」

 腹を指で突付いたのがそんなに悪いことだろうかと特に何も考えず、灰色の鶏冠もどきを摘んで肩の上に乗せる。

「むぉおおっ!!ひっ、引っ張るのは更に最低だっち!美女しかいないお花畑が一瞬見えたっちよ…!?ワシを殺すつもりっちかアキラ!?

「さあな」

「こらっ、ちゃんと反省するっちー!」

「悪い悪い」

「気持ちがこもってないっちぃいいいい!!

 まだ文句を言うひよこ虫は無視して、彼は階段を下がっていった。ロビーはなるべく見ないようにして。

 本人にとっては天岩戸でも、他人にとっては少し彼の生活サイクルがずれていると思う程度で、最後に食堂に入ってきた彼を誰も気にしなかった。そしてそんな態度の仲間たちを、彼は少し嬉しく思い、同時にもっと構ってほしいとも思う。露骨にそんな言葉を頭の中に思い浮かべたことはないが、具体的にすればそうなる。

「おう、また寝坊か」

「うるさいな」

 朝食を食べ終わったらしいゲイルと、いつものようなやり取りを交わす。彼の言葉に、当然長い付き合いであるゲイルは気にもしない。剣を長く握ってきたせいで、分厚くて硬くなった手で背中を叩いて返事をする。アキラもそれは特に気にしないが、その衝撃にはいつも一瞬踵が浮いてしまう。

 相変わらず騒がしい朝の食堂には、やはり女性の姿はなかった。ロビーは見ていないが、きっとそちらにいるのだろう。彼が遅れて食堂に顔を出すということもあるが、女性の目覚めの早さは空夜から聞いた。朝日を見にわざわざ早いうちから出かけるなんて、老女のようだと内心鼻で笑った。それから、そう思うような方向でしか自分を保てなくなったことに愕然とし、やはり自分をそうさせた女性が憎くて仕方がなかった。

 自分の心の平穏を保つには、結局関わらないことが最もいいのだ。だが、そうすると行動の全てが慎重になり、誰かの会話を呆然と聞くこともできなくなる。何より、女性は仲間たちにとってはなかなかの良い話の種らしい。人は基本的に誰かの悪口を言うことで己の安定を取り持つが、褒め言葉を言っていたほうが気持ちがよいと思う者もいる。悲しいかな、彼の仲間たちは後者であるため、最近の話題となると自然と女性にまつわることとなった。そしてそれを偽善だと思ったところで、彼の気持ちが安らかになるわけでもない。むしろ、自分の虚しさが更に心に響くようになるだけだ。

 マックスの椅子の近くに座ると、甘い匂いのまったくしないパンケーキにナイフを入れる。付け合せはウィンナーと西洋風煮豆。マヨネーズもどきのソースがかかっている刻みゆで卵とタマネギと人参のサラダも同じプレートにこんもりと乗っている。

「おいシロ、って…」

 アキラが席に着いたときには、早々とシロが素早く食卓に着地したらしく、肩にはその姿がなかった。辺りを見回せば、マックスの隣の席にいるイグリアスとリューンエルバのほうに行っている。また、朝食の残りを恵んでもらうのだろう。

「今日はどこに行くんだよ」

 朝の挨拶もなしにそんなことを言い出した彼に、マックスは苦笑を浮かべて冷たいスープをすすった。

「寝坊した割りに、体を動かすのは好きなのか」

「別に好きじゃない。退屈よりはマシなだけだ」

「そういうことか」

 浅く頷くマックスは、どうも普段と違うようでもある。それを見て、煮え切らない態度だと思いながら彼はもう一度訊ねる。

「今日はどこに行くんだ?」

「昨日と同じく魔の森だ。抽出できる魔法がまだまだ足りない」

「大魔導士狙いか…面倒なんだよな、止め刺し待つの」

 それでも、やはり宿に閉じこもり、何もせずにいるよりもいい。そう思い、今のうちにいつもの戦い方を思い出すアキラに対し、マックスは明らかに表情を変えて彼を見つめた。

「お前は来るなよ。今日は休んでもらう」

 厳かとは言いがたいが、それでもはっきりとした意思表示が含まれた発言に、アキラは目を剥いた。思わず人参が喉に引っかかり咽そうになったが、なんとか飲み込む。咳き込みながら水を飲むと、抗議のためにマックスのほうに顔を向けた。しかし彼の抗議よりも先に、マックスは呆れたような表情で彼を制す。

「あのな、お前が頑張ってくれるのはいいが、それだって限度がある。起きるのは遅いくせに、毎回遠出にくっついてくることを面白くなく思う奴だってそのうち出てくるぞ」

「そんなこと…!」

 ない、とは言いたい。けれど、想像できないことではない。何より自分はこの境遇を武器にして、今まで自分のわがままを無罪にしてもらっているのだから。同じ異界の魂の出現により、人としての公平さを取り戻しでもすれば、彼の立場はたちまち危うくなる。

 そこまで不完全な異界の魂の心中を察しているのかどうかは別として、苦々しい表情で銀髪の男は腕を組む。

「お前がそうでもしなきゃ辛いってことくらいは分かる。前の戦いに参加できなくて引け目を感じているから、今こうして根詰めてるのも分かってるつもりだ。けどな、お前とは逆に滅多に遠出に連れて行ってもらえず、実践で腕を磨く機会がなくなっちまった奴もいる。ヴァラノワール生だけじゃない。ここにいる奴らは自分の腕で生きてきた奴が多い。それを鈍らせるのは責任感じるんだよ。埋め合わせしなきゃいけないってことぐらい分かってくれ」

 そんなことは関係ないと、知らないと言えればどれだけ楽だろうか。しかし、彼の反論は喉に出すまでに封じられる。それは仲間たちに対する親愛の芽生えか、それとも彼への不平不満を訴える声を恐れてか。

 何も言えずうな垂れるアキラに、マックスは苦笑しながらウィンナーを切る。

「別にお前に苦しめって言ってるんじゃない。結果的にお前にそうさせるのは俺だって辛いさ。ただ、休みがないと体は辛いだろ。気持ちもずっと張り詰めるのはよくない」

「・・・・・そんなことはない」

 沈んだ調子ではあるが、それでも納得してくれそうな言葉に、マックスは敢えて明るく話す。

「若くて羨ましいな。俺なんか、無理しただけで節々痛くなって大変だよ。…ま、今日は休め。お前も俺以外の奴に心配されるのは嫌だろ?」

「・・・・・まあな」

 違うとは言えなかった。むしろ、構われるのは嫌いではない。確かに必要以上に周囲をうろつかれるのは嫌だが、注目を浴びることは心地がよい。誰だってそうだ。特別扱いされることを謙遜するのは、単なる礼儀以外の何ものでもない。そしてアキラは、特別扱いされて当然の状況下にいるのだから、それに甘えても何ら問題ないはずだった――ほんの少し前までは。

 どうにもならない苛立ちをスープと共に飲み干すと、喉越しの悪さに少し咽る。いくらトマトのような酸味があっても、ポタージュのまろやかな風味は一気飲みに適していないらしいと、実感させられた。

「分かった。二度寝でもしておく」

「老けてるなあ、散歩ぐらいはしろよ。湖なんかいいんじゃないか」

 ほんの数十秒前に自分を若いと言っていた人間の言葉か、と呆れた彼ではあるが、特に何も言わずパンケーキを頬張った。普段でも食事を済ませるのは早いほうではあるが、なるべくゆっくり咀嚼するように意識していた。戦いに行けば最悪の場合、夜まで食べ物を口に入れる機会がないこともあるからだ。そのためのゆっくりした咀嚼だが、今日は激しい運動も昼食が食べれない忙しさもない。食堂の賑やかさが後ろめたいせいで、いつも以上に乱暴に口の中に食べ物を放り込む。味はあっても感動しない。そんなことを気にする余裕など、もう彼にはないのだから。

 急いで食べるアキラを見ても、マックスは特に何も言わなかった。そしてその態度が、更にアキラを苛立たせる。適度に距離を取っているつもりなのが悔しい。自分に大人の判断を求められていることが辛い。まだ自分は未成年で、本当ならば大人に庇護される立場なのに。――その状況を、当時の自分は何とも思っていないくせに無意識下で甘えていたことを、今思い知らされる。

 ふと、何の憤りもなく予感もなく、今頃ロビーのソファで座っているであろう女性を思い出す。見た目は具体的に年齢が分からないが、若かいことは事実だ。雰囲気が落ち着きすぎているせいで、純粋に外見年齢を判断できない。けれど、あの完全な異界の魂も、大人の庇護下にあった時代があったはずだ。そしてそのとき、やはりあの女も、生意気なことを考えながら無意識的に大人たちに甘えていたのだろうか。今はそんなことなんてないんですよと、澄ました顔を見せて。

 それを思うと、彼は少し口元が歪んだ。自分の中に黒い思いが芽生えているのは明確だから、その笑みを浮かべた後も特に罪悪感など持たなかった。けれど、虚しさは優越感より遥かに強い。そんな「いやなやつ」になってしまった自分が、そんな「いやなやつ」にされてしまった自分が、どうしようもなく卑小に見える。

 結局、その恨みはあの女性に向かう。本人には八つ当たりではないと自覚はあっても、他人からすれば八つ当たりかもしれないと思うと更に自己嫌悪は激しく、そして更に完全な異界の魂への妬みは大きくなる。感情の螺旋は続いたままで、止まることがあるとするならば他のことを考えるときぐらいなものだ。

 ――そしてその他のことを考える機会は、今さっき銀髪の銃使いによってなくされてしまったところだ。

 最後のパンケーキに巻かれたウィンナーを飲み込むと、アキラはトレイを持って立ち上がる。マックスには目もくれず、その態度に銀髪の彼は苦笑しながら肩を竦めた。

 それからトレイを食堂のカウンターに戻したときにシロが肩の上に止まっていないことに気がついたが、特に呼び戻そうとは思えなかった。休む際にまで呼び戻す必要などないだろうし、本人も退屈な時間は嫌だろうと判断する。――あいにく、自分はあの女のような、会話で素晴らしい充実感を持たせることなどできないのだから。

 再びベッドに潜りに行こうとすると、アキラは油断してロビーを見てしまった。当然、そこには白い細身のドレス姿の女性がいる。清楚な白銀の髪は、金色の朝日を受けて不思議な輝きを見せている。その隣には、キュオがはしゃいだ様子で座っていた。彼は幼稚な嫉妬心が、音を立てて大きく燃え上がるのが分かった。

 アキラの視線に気付いたらしいキュオは、無邪気な笑顔を見せて彼に笑いかけた。今はその笑顔すら憎らしい。その笑顔を引き出したのはあの女なのだと思うと尚更だ。

「あ、アキラ。なんか、欲しいものあるニャ?」

「は?なんだよ急に」

 物で釣るつもりなのかと内心アキラは身構えるが、キュオは相変わらず無邪気そのものに首をかしげる。

「キュオは今日は機嫌がいいから、アキラのお願いなら聞いてあげてもいいのニャ」

 普段ならそういうことか、と納得できるものなのだろうが、今の彼にはそんな余裕などなかった。キュオの隣では控えめながらに彼を見つめる女性がいる。女性は彼にとってその存在だけで余裕をすり減らしていく。だから、単純に思ったことをアキラは口にした。

「別にない。意味も分からず機嫌がいいなんて不気味だからな」

「むーっ」

 キュオは少し怒った様子で耳を立てた。とは言ってもキュオの耳はほぼ横に伸びていく形のものなので、立てても耳とこめかみの距離が近くなった程度だ。

 キュオは膨れっ面のまま、アキラではなく女性のほうをふいと向く。女性は特に会話に加わろうとしない様子で、困ったような笑みを浮かべていたが特に誰のフォローもするつもりもないらしい。殊勝な態度だ。しかしそれだけでも彼の黒い思いは止められない。――それとも自分と違って余裕があるのか。ああ、あるのだろうな。皆に文句なしに好かれているのだから当然だ。そうして密かに自分を見下せばいいんだ。

「いいニャッ!アキラじゃなくて別の人にするから。せっかく久しぶりにキュオが出掛けれるのに、アキラってばひどいニャ」

「・・・・・・出掛けられるって、戦いにか」

「ニャ」

 アキラの質問があまりにも素朴な調子だったので、無視するつもりだったはずのキュオではあるが、思わずこっくりと頷いてしまう。その後思わず口を噤んだが、そんなことに彼は気付きもしなかった。キュオの頷きに、愕然とした気持ちで目を見開き、罪悪感という錘を内臓に詰め込まれたような重みを体に感じた。

 キュオはつまり、彼のここ十日ほどに渡るわがままの被害者ということだ。そういえば、自分が食堂にいたときに玄関に向かっていたグリューネルトとホルンも妙に明るい表情をしていた。それは恐らく、久しぶりに遠出ができるから。戦うことはあまり好きではない少女たちですら、少し嬉しいくらいに長い間戦っていなかったと思わせるほど、自分は彼女たちの弊害になっていたのだと思い知らされる。恐らく彼女たちは、自分のわがままのせいでずっと遠出ができなかったことを知らない。だからこそ、彼の罪悪感は更に重くのしかかる。

 アキラに急に顔色を悪くされて、驚いたのはキュオだった。無視するのはいつもの調子の彼が相手であって、今の彼はそうではない。まるで嘔吐でもしそうに顔を青ざめている。実際、彼は吐きそうだった。自分のわがままの影響が、こんなに直接的に知らされるなどと思いもしなかったからだ。

「アキラ…?大丈夫ニャ?」

 心配そうに訊ねてくるキュオの目さえ直視できず、アキラはそのまま逃げるように階段のほうへと向かう。

「気分悪い。ちょっと寝る」

「ニャ〜…」

 心配そうな声をあげるキュオの隣には、同じく心配そうな顔をしている女性がいる。それは当然のように彼の吐き気を煽っていく。ただし、女性への思いは純粋で幼稚な憎しみであることは変わりない。――お前のせいでこんなことになったんだと、言いたくても他の仲間たちがいる手前、言えるはずもない。言えばきっと、自分が悪者にされてしまう。それに、二人っきりのときに言ったとしても、もしそれを仲間に言われればどうなってしまうか。

「・・・・優しい子」

 不意に聞こえた女性の言葉に、思わずアキラは階段の下を覗き込む。女性と目は合わなかった。だが、キュオの視線とはかち合った。それから納得する。あの言葉は、キュオに投げられたものなのだと。当然だろう、と自分の勘違いを嘲笑う。何故こんなに醜い感情が張り詰めて溢れ出そうな自分が、優しいなどと称され、同情されればならないのかと不思議に思ってしまった。それも勘違いだったようで、素直に女性はキュオを褒めていただけだと知ると、少し安心した。

 これであの女性に自分が同情されてしまえば、今以上に苦しくなるに違いないとアキラは思う。それが単純な善意であろうとなかろうと、結局は自分が見下された存在であると思うだろう。そうなるよりも、あの完全な異界の魂に無視されたほうがずっといい。

 そう思いながらアキラは大きな音を立てて自室のドアを閉めると、その音がロビーにまで聞こえてきて思わずキュオは肩を竦めた。

「・・・・アキラ、大丈夫かニャ・・・・」

「彼次第でしょうね。思った以上に繊細みたい」

 少し沈んだ調子で答える女性に、キュオは軽く頷いた。アキラとは元ヴァラノワール生たちの中では最も付き合いが長いので、彼の言動については多少の自信がある。

「うん。アキラは騒ぐのも嫌いだけど賑やかにするのも嫌いニャ」

「そう、それは繊細ね」

「ニャ」

 力強く頷くキュオの肩を、女性がそっと触れる。その力をほんの僅かしか感じられない促しは、触れただけでも自分が赤ん坊の時代に戻ったような優しさがあった。

「もうそろそろ時間みたいね」

 そう言われて玄関のほうを見てみれば、褐色の肌をした踊り子がキュオに向かって手招きをしている。それを見て、キュオは時間を潰し過ぎたと慌てて立ち上がった。

「ニャ〜!いってきますニャ!」

「いってらっしゃい」

 女性は相変わらず穏やかな笑みを見せて、玄関のドアが閉まるまで手を振ってくれている。それを見届けると、キュオは有意義過ぎた感のある時間つぶしに頬を紅潮させながらニヴァの後ろを走っていった。

 

 

 最近は夢見が悪いらしい。それというのも、起きている間にあまりいい気分がしないからだろう。特に、ここ最近は。

 夢の内容は忘れたが、それでも全くいい夢とは言えないらしいことは、自分の首筋がぐっしょりと濡れていることと、夢から覚めた安堵感でよく分かった。朝目覚めたときは朝食を食べて、キュオが自分のわがままの犠牲者であることに衝撃を受けただけなのに、それでも案外すんなり二度寝をしてしまったらしい自分に少し呆れる。体は能天気なものなのか。それとも、嫌な感情でつむじから足のつま先まで詰まった感覚で、普段以上に疲れているのか。

 どちらにしろ、体は素直なもので、ゆっくりと体を起こしたときには喉が渇いて仕方がなかった。幸いなことに空腹感は感じない。まあ寝ているだけだからそれほど激しい運動はしていないだろう。

 今の時間帯はあの女性が何をしているのかは全く知らないが、それでも一応気構えたほうがよさそうだと判断しながら、まだ完全に覚醒しているとは言い切れない頭のままでアキラは立ち上がった。

 陽が高くなるまで部屋に篭っていたのは久しぶりで、ドアを開けた静寂さが懐かしい。留守番役の者たちも、ほとんどが出払っている状態らしい。自分の足音と呼吸音しか聞こえない空間は、彼を酷く落ち着かせた。常に気を張り詰めさせた状態のほうが多かったので、今この状態だけで気持ちいいほどだ。このときばかりは、彼は素直にマックスに感謝した。

 ゆっくりと階段のほうへと向かうと、三階が解放されているらしいことに気がついた。下の階にまで流れ込んでくる風が新鮮な緑の香りを持っているからだ。

 誰がいるのかは特に考えず、そのままアキラは階段を下りて食堂に向かう。昼食はこの世界では確実に取るべきものでもないらしく、各々の空腹具合に任せるためか、この宿屋でも昼食だけは受け付けていなかった。空腹になれば勝手に外で何かを買えばいいと、彼も特に昼食の必然性は軽視している現状である。

 しかし、食堂の最低限のものは解放しているはずなので、飲み水はすぐに発見できた。朝食用に置いていたポットを数時間前に中身を新しくしただけのためか、あまり冷えていなかったが、それでもないよりはまだいい。冷やしすぎると、胃にも刺激が強すぎるだろうからこのくらいがいいのかもしれない。

 水を飲むことでようやく体が目覚めたのか、今度は顔を再び洗いに洗面所に向かう。こちらも人はいなかった。どうやら、宿屋の女将たちも外出中らしい。物騒なものだ。

「・・・・まあ、これだけ客がいるんだから、誰か残ってくれるって思うのは普通か」

 独り呟き、濡れた顔をタオルで拭う。いつもタオルは湿っているが、今は乾ききっていた。だから拭き心地は気持ちいいかと言われれば、どうも他の男性陣と同じもので顔を拭うとなると嬉しいこととは思えない。とは言えど、女性陣用のタオルで顔を拭うのは別の勇気が必要になる。

 少し頬が赤いかもしれないが無視して、再び部屋に戻ろうとする。別に三度寝をするつもりではなく、ほとんど条件反射的なものである。

 階段をゆっくりと上がっていくと、一階に下りてきたときとは違う状況が眼前にあった。二階と三階を繋ぐ階段の柱に、黒髪の女性がいた。物騒な鎌は持っておらず、腕を組んで何かを待っているように退屈そうな顔をしている。

「何してるんだ」

「お前には関係ない」

 打てば響くような――と言ってもいいのか分からないが――、拒絶の言葉に、アキラは少し呆れる。この女性の人付き合いの悪さはよく知っている。自分ですらたまに付き合う大人たちの騒ぎにも参加しないし、戦闘時も必要最低限しか喋らない。まともにコミュニケーションを取れるらしいのはリューンエルバやラーデゥイぐらいなもので、それは皆認知しているから事務的な用件がある際にしか話しかけようとない。その例外は、やはりミュウであるが。

 アキラも例に漏れず、特に話しかけるつもりはなかった。それでも、ヒロが何故こんなところにいるのかは気になる。今日一日は何もすることがないため、部屋に戻ろうともせずヒロを見続けていた。じっと見られることに慣れていないのか、苛立った様子で女性は顔を上げる。

「何だ。とっととあっちに行け」

「あんたが何をしてるのか教えてくれたら行くよ」

 それを聞いて、ヒロはいよいよ不機嫌を露にした。いつもは拒絶的だが大人しいものの、その恐ろしさや烈しさは戦闘中によく知っている。だから怒らせる気はなかったのだが、ヒロの据わった目つきを見てアキラは思わず身構えた。

 一応なりとも仲間だというのに露骨に怯えられると、ヒロは呆れたようにため息をついて腕を組み直す。

「怖がるならそんなことは言うな。――先客待ちだ。あいつに話しかけようとしても話し中に割って入るのはよくないからな」

「あいつ?」

「お前の苦手なリトル・スノー」

 かなり直接的に言われて、アキラは思わず眉をしかめた。苦手であることは確かだし、それを隠すつもりもあからさまにするつもりもないが、こうも直接的に表現されると気分が悪い。まるでヒロに弱みを握られているような感覚にすら陥ってしまう。

 そして彼のその気持ちは当たらずとも遠からずなのか、ヒロは鼻で軽く笑うと不適な笑みを見せた。その毒々しいまでに鮮やかな瞳は、それだけで敵を萎縮させる鋭さを持っている。

「ばれないとでも思ったか?初日から丸分かりだったぞ」

「・・・・・そりゃな。ミュウとも喧嘩したし」

「ほう。それは知らなかった」

 いらないことを言ってしまったらしいと、彼は全て見透かされていたと思っていた自分の気持ちを慌てて引き締める。

 その動揺ぶりは見ていて楽しいのか、ヒロは喉の奥で獣のように笑った。聞こえてくるのは若い妙齢の女性の大人びた声だが、それでもその声の響きは獣の牙以上に物騒なものを孕んでいる。半年ほど生死を分ける戦いの場に晒されていたアキラは、そのくらいのことは気がつくようになってきた。チキュウにいてもそんなものは全く分からなかったろうが、分かっても嬉しいものとは思えない。

「そんなに悔しいか?あいつが大仰な肩書きを持っていることが」

 慕われているとも、完璧な異界の魂とも言わず、そんな言葉でヒロは彼を挑発する。敢えてその違いを取る意図が分からず、アキラは苛立つように目を逸らした。

「関係ないだろ」

「そうとも、関係ない。度合いで言えば、私が最も有名だからな」

 思わぬ言葉に予想以上に脱力してしまい、なんの冗談だとはアキラは言えなかった。確かにそうらしいことは、前にガラハドとフィーゴから聞いたことがある。が、そこでヒロ自身を引き合いに出すとは、何か問題が違っている気がしないでもない。

「お前もよく分からない奴だな。スノーの持つ力とお前の持つ力が同じような種類なら嫉妬しても当然だろうが、全く別物だろう」

「そういう問題じゃない」

 苛立たしく思いながら、アキラは小さく舌打ちをする。いつの間にか相手のペースに巻き込まれていて、会話から逃げれそうになかった。逃げてしまっても金は持っていないし、逃げ場は宿屋内であることは確かであるため、意味がない。会話が終わるときはヒロの尋問に彼女の満足がいくまで答えるか、それとも三階という名の屋上のテラスでリトル・スノーが話し相手と共に二階に戻ってくるかのどちらかである。出来ればどちらも避けたいが、最早彼には会話が終わるのならどちらでもよかった。

「それともお前は、異界の魂の能力はなるべく多く持ったほうが得だとでも思っているのか」

「悪いか。それにあの女は、完全な異界の魂なんだろ…俺は不完全で。だったら、不完全な俺が完全な奴を妬んで何が悪いんだ」

 それを聞いて、ヒロは大きなため息を吐いた。明らかに、彼の発言に呆れている。

「異界の魂に出来損ないなど存在しないのに、贅沢な奴だ。そして、持ち物が多ければ多いほど、それなりの苦悩があるとも分からないらしい」

 馬鹿にするような物言いに、アキラは内臓が燃え上がるような体の熱さを感じた。自分は真剣に悩み、苦しんでいるのに、あからさまに見下されてることは侮辱以外の何ものでもない。たとえそれが正しかろうが、こちらの余裕ぐらいは気遣うべきだろうとヒロに対して強く思う。

 しかし、彼女はアキラのそんな気持ちなど分かりはしない。急に反抗的になった目つきで大体彼の考えは読めたが、それでも分かってやるつもりなどなかった。それどころか、この尻の青い若輩者は、悲劇の主人公ぶって同情されたがっているとしか思えなかった。前の戦いではクリングゾールとかいう異界の魂に組み説かれて意欲をなくし、戦線離脱をしただけに尚更だ。戸惑ったままで戦いには参加できないなど、彼女が最も烈しく戦っていた当時には考えられないことだ。そんな甘い考えは、彼女の前では通用しないことを、それこそアキラは分かっていない。

 アキラが口を開く前に、ヒロは先手を打つように語り出す。

「お前は自分が不幸だと思っているらしいが、そんな自慢は早々に捨てるんだな。情けを得て仲間から優位を得ても虚しさしかないぞ。お前より不幸な者などこの世界には五万といる」

「・・・・そんなことぐらい分かってる。けど、それとこれとは違う」

「どう違う。自分に起こっている問題と、他者との問題という違いか?とんだ利己発言だ」

 鼻で笑われ、アキラは顔が冷たく感じるくらい頭に血が上るのを感じた。何故そこまで挑発的な言い方をするのかは分からないが、それでも喧嘩を売られていることは確かだ。

「あんたに何が分かるんだ…」

「何が、とは何だ?相手が自分より優れた人格であることへの悔しさか?それとも自分のほうが有利なはずなのに相手が仲間から慕われる辛さか?自分より弱そうなのに、実際は互角か自分以上に強い相手であったことへの絶望か?相手のほうが満たされていることへの妬みか?」

「・・・・・・・・」

 矢継ぎ早に飛んでくる言葉を、全てアキラは受け止める。受け止めるというよりも、図星を突かれたと言ったほうが的確だった。しかしそれを受け入れることはまだ彼には無理な話だ。

 押し黙りうな垂れるアキラに対し、ヒロはしかし鼻で笑わず真剣な表情で彼を見た。

「お前の不幸など知りはせんさ。だが、それはお前だろう。相手の不幸も知らず勝手に自分の不幸を押し付けるのは厚かましいな」

「・・・・あいつと同じようなこと言うのか」

 初めてリトル・スノーとして対峙したとき、あの女性は何と言っただろうか。自分は不完全であんたとは違うと告げると、女性は落ち着いた調子でそれは自分の全てを知ってから言いなさいと返してきた。けれど知る勇気も気力も関心もないのに、何故そこまでしなければいけないのだろうか。そこまでしなければ、文句も言えないのか。

「言うとも。お前は気にならないのか?勝手に自分がどんな性格でどれほどの実力を持っているのか、知りもしない相手に決め付けられるのは」

「気になることはなるさ。…けど、いいように見られているなら誤解されたままでもいいんじゃないか」

「誤解は誤解だ。過大評価は特にあいつは気に食わないだろうな」

 軽く笑って流すヒロの言葉に、アキラは何とも言えない思いを細く長いため息で吐き出す。そこまで絶対的な信頼を持ってして相手を評価できる者など、彼の中にはいない。そういえば、ヒロは妙なぐらいにあの女性と仲がいいらしいことを思い出す。

「・・・・・あんた、あの女と仲がいいんだよな」

「悪く見えれば盲目だな」

 頷きながらの返答は、あまり印象のいいものではない。それでも自分が怒らせてしまったからだろうと納得すると、アキラはここで別れたい気持ちを抑えて訊ねた。

「戦争中だったのに仲がいいだなんて、変じゃないのか。特に、あんたが兵を従えて戦ってた頃は、人間と魔族は争いあってたんだろ」

「確かにな。だが、あいつは異界の魂だ。この世界の人間とは違う。差別も人魔の溝も知らないからこそ、人魔共存なんて馬鹿なことを旗印に掲げることが出来た」

 またヒロは笑いを浮かべるが、アキラに向けるような刺々しさはなく、むしろ慈しむような優しささえ垣間見える。それに対して嫉妬は辛うじて覚えずに済んだが、それでも自分の中に相手には敵わないと強く思わせるだけのものはあった。

「当然、わたしも最初の頃は拒絶したし、スノーの言葉を信じなかった。しかしあいつなりに苦しみ、努力はしてきた。だから得た今の結果だ。お前の考えるように、話しかければ誰でも懐いてきたわけじゃない」

 その言葉にアキラは押し黙る。そう思っていたことは事実だからだ。だが、それでも勝算はあったのではないかとも考えてしまう。そうでなければ、大魔王の娘とやらと友だちになろうとしないだろう。

「逆にお前に聞きたいな。お前は戦時中に国の上に立つ者の気持ちが分かるのか。お前は醜くも誇り高く争う者たちしかいない世界に自分の主張を貫き通せるのか。常に命の危機に脅かされながら政治を執り行えるのか。国民が無残に他国の兵に蹂躙され死んでいくのを見る気持ちも、大切な仲間の命の犠牲の上で生きていく気持ちも、全て分かるというのか」

 分かるわけがない。それでも、だからと言って自分の不幸などその苦しみよりよっぽどましなものだとは思えなかった。それらに喩えられるものは確かに過酷だろう。だが、それによって自分の味わう気持ちが治まるかと言われればそうではない。

 ヒロの瞳から感じられる威圧感から逃れたくて、一息飲み込むとアキラは慎重に口を開いた。

「…経験してないから分からない。けど、その辛さを想像しても、俺の辛さはなくならない」

 なるべく言葉を選んだつもりではあるが、その主張自体がヒロは気に入らなかったらしい。威圧感があったはずの目を伏せて、軽いため息を吐いた。呆れられたのは明白だ。

「なるほど。逃避としてしか取れないのか。それは根深いな」

 呟きの意味は分からないが、アキラはそれを詳しく説明させようとは思えなかった。自分に架せられていたらしい、見えない鎖のような視線が大きく外れ、ヒロが自分に興味を失ったらしいと分かると、部屋に戻って昼食代を探す。長い間だったとは思えないが、怒ったり傷ついたり考えるだけで、かなりエネルギーを消耗したのは確かだからだ。

 それに、今はあまりいい気分とは言えないから、外に出て気分転換もしたかった。すぐ近くにヒロと完全な異界の魂がいるところでは、三度寝ができそうにない。

 そういえば、シロはどこにいるのだろうか。誰かの後についていったのか。記憶を探っても食堂にいるような感覚はなかったし、ロビーも静かなものだった。大体、あの姦しいひよこ虫が彼を見つけて静かな訳がない。となると、やはり誰かに付いて行って外に出たのだろう。

 頭の中を仕切り直すと、折りも良く金貨を発見した。旅をしていく中で特にここ最近は高価なものが手に入るので、昼食代に金貨が使えるのは贅沢な気分だった。旅を始めてまだ間もない頃、錬金所に行っても合成する金額が足りなくて必死に旅費を切り詰めていたことを思い出す。それが今や三十人以上の大所帯だというのに、錬金に困ったことは懐かしい思い出になってしまうほどだ。

 なんとか気分を紛らわせることに成功すると、アキラは安心の吐息をついて部屋から出る。階段を下りる際にヒロはいなかったから、恐らく大の仲良しらしいあの女性と上の階で会話中だろう。理解しあえる過酷を味わったもの同士、束の間の親睦を深めればいい。

 階段を少し早歩きになりながら下がりきり、そのままの勢いでドアを開ける。思わず目を瞑ってしまうほど眩しい陽光に驚きはしたが、案外暑さは感じないことは幸いだった。

 それどころかドアから入ってくる風は気持ちよくて、昼食を食べた後は散歩がてらに湖の近くで昼寝するのもいいかもしれないと考える。寝てばかりとなると無趣味の典型のようで少し複雑な気分にはなるが、別に悪くはない。修行と言いつつ剣を振り回すのはチキュウにいた頃を思い出して暗い気分になるし、この世界の本は基本的に英字のようなので読む気がしない。

 今日一日のスケジュールが決まっただけでも上出来だと自分を励ますと、アキラはドアを閉めて勢いよく街のほうへと走っていった。

 

 ――まあ、この世界にファーストフードを求めるほうがいけないんだろうな、とアキラは自分に言い聞かせる。

 街中を歩いて、図書館があるほど文化面のレベルが他の街よりも高いはずのローレンボフでさえ、彼の求める食べ物はなかった。具体的にチキュウの食べ物を求めたわけではないが、器がないまま持ち運びが可能で、適度に満腹感があり、飽きる味ではなく、食べ終わっても包み紙は小さく収納でき、水分補給も可能なものは、この街にはないことは紛れもない事実だった。

 とりあえず、ローストビーフのような具がたっぷり詰まったサンドウィッチとピクルスの詰め合わせ。よく冷えた一人分サイズの果実酒――ノンアルコールの瓶は売っていなかった。売り切れたのだろう。――にデザートにはマンゴーの香りがする林檎を手に入れた。立派な昼食としては申し分ないが、重すぎた。一応果実酒を買った店で籠を貸してもらったが、つまり返さなければならないということだ。紙製のコップを作り出す技術がまだこの世界にはないことぐらい分かっていたはずなのに、硝子の瓶を渡されるとは思っていなかったため、その重みは予想以上に体に響く。

 それでも普段から生死を分ける戦いを繰り返してきたことは幸いで、湖に着く頃には手が痛くなることも、汗だくになっていることも全くなかった。体が少し火照る程度なもので、息切れすらしていない点は彼自身としては予想以上の体力だった。

 静かな湖面を眼前に、黙々とアキラは咀嚼する。ピクルスを素手で掴まなければならないかもしれないことに一瞬焦ったが、そこの主人は木製の串をつけてくれていた。嬉しい気遣いに感謝しつつ、自分がものを食べる音が水面に奇妙な響きを持たせていることを少し楽しむ。

 一人の食事は嫌いではない。食堂の騒がしい中に一人で食べるのは確かに辛いが、一人しかいない状況で視線も気にせず悠々と食事できるのは気が楽だった。他のことに気分が紛らわされないし、一人で暗い考えを思い浮かべても気の切り替えが利きやすく感じる。何よりアキラは、孤独が好きだった。少なくとも、好きだという意識はあった。

 主食と副食を食べ終わり、少し酔っ払うかもしれないことを危ぶみながらも何とか果実酒も飲み干す。オレンジに似た果物がラベルに描いてあったくせに、実際はマスカット味だった。

「・・・・・まあ、いいけどさ。飲みやすくて」

 未成年の嗜みとして両親の酒を好奇心で拝借した経験のあるアキラは、口元を拭いつつそう一人ごちる。

 とりあえず満腹感を味わったため、デザートに手を伸ばそうとするが、なんだか気持ちよくてそのままでいたい気分になった。正直に言えば酔っているのだろう。だが、完全にほろ酔い気分で心地よい頭には、別に問題ではないだろうと完結付ける。デザートが食べきれそうになければ、宿屋に帰って腹を空かしている誰かに食べさせればいい。それで完璧だ。何の問題があるのだろうか。

 とろりと、シロップのような甘い心地が彼の肩の力を抜いていく。この感覚は知っていた。疲れて疲れて疲れ果てて、ようやく満腹になってようやくベッドに入り込める心地よさと同じものだ。まどろむ状態、完全に深い眠りに入る、とても幸せなほんの数十秒前だ。

 酒が入っただけでそんな気分を味わえるなら、なかなか酒を飲むのもいいことではないか。酒を嗜む大人たちの気持ちがよくよく分かって嬉しくなるが、それ以上に体の力は次第に抜けていく。何かいけないような気がするが、何がいけないのかも思い出せない。とりあえず、気持ちいいからこのままでいようと思い、瞼を閉じると、アキラは早々に寝息を立てた。

 当然、飲み散らかした後の酒瓶も、食べるはずだった果実も、返すはずだった籠も全て置いたまま、彼は深く久々に心地よい眠りに着いた。

 そしてその中で見た夢は、酒を飲んだときと同じく心地よいものだった。否、心地よいのは気分だけで、彼自身はとても酷いことを誰かにしている夢だった。

 髪の長い綺麗な女性に覆い被さり、抵抗する相手を無視して、彼はうっとりとした目つきと心地よさを感じながら何かをしている。相手の抵抗はなくならないようで、それが彼には気持ちよかった。抵抗されることが気持ちいいだなんて変わっているとは思えない。ただその快楽を貪るように相手の女性の身動きを封じていく。そうなれば、ますます抵抗は激しいものになるからだ。

 相手は嗚咽を漏らす。普段から考えもつかないほどその形相は必死で、恐怖に歪み、また現状を恐れていた。

 ――変な話だ。相手は既に死んでいるはずなのに。

 涙が見える。唇からは唾液が流れる。喉はひゅうひゅうと空気を求め、しかしそれを彼は許さない。ああそうだ、死に苦しむ姿がとても美しいのだ。

 女性の細い首を絞める彼の気持ちはますます高まっていく。汗を密かに掻いているらしく、手のひらが冷たい感覚を持つ。興奮しているのは明らかで、下半身が痛くなっているのが分かる。

 強まっていく指の力に、女性は舌すら出して助けを求める。声はいつも聞くものと思えないほど苦しげだ。その姿にいよいよ彼の気持ちは昂揚し、指に篭る力も強くなる。それからびくりと女性の体が大きく揺れたのが分かった。最期の抵抗に、彼は心地よい開放感を感じる。

 それから目を覚ました。心地よさは嘔吐感に変わり、感じた開放感は悪夢からの解放に変わる。

 肩で息をしながら、べったりと髪が張り付いた首筋に不快感を感じて襟で汗を拭う。もしかして――もしかすると、二度寝で見た夢はこんなものだったかもしれないと、自分で自分が怖くなりながら。

 指とは言わず体全体が震え、彼は必死になって自分の震えを抑えようとする。昂揚感を感じてしまった自分。人を絞め殺すということに、知りうる限りの快感を持った自分。しかも相手は――あのリトル・スノー。

 苦しみに歪める顔は恐ろしかった。自分を恨んでいるようで、いつもからは考えられないものだからこそ醜くて、その分怖かった。悪夢も悪夢だ。それこそ自分が知りうる限りの、最悪な悪夢だ。ミュウと喧嘩した翌晩に見たものは間接的にあの女性を二度目の死に追いやったものだったが、今回は言い逃れできない。夢とは言え見てしまった。あの女性を直接的に殺す夢を。

 体全体が震えているせいで、歯が奇妙な音を出している。食いしばっても痛みはなく、麻痺に近いものしかない。ただひたすらそんな自分が怖くなったが、それでも震えてばかりではいられない。気を紛らわせるために、目を覚ますなり落ち着くなり、何らかの対処法が必要だった。

 酒瓶が転がっていた。そうだ、これのせいで悪夢を見たが、今はそんなことを言ってる場合ではない。慌てて酒瓶を握り締めるが、振ってもそこには何もなかった。

 舌打ちと同時に酒瓶を置きなおすと、今度は果実が目に留まる。瑞々しい黄色は夢で見た快楽を連想させる濁りを持っていたが、そんなことに構っていられる余裕はない。震える手でそれを掴み取ろうとしたが、まだ体は落ち着きを取り戻していないのか、果実から指が滑って湖のほうに落ちていった。

「あ…!」

 思わず声に出して、湖に浮かぶ果実を追う。思わず靴を脱いだがそれだけで、ズボンが水に濡れても気にならなかった。冷たさで落ち着けば損ではない。

 底の浅いプールで歩くような懐かしさを感じながら、彼はゆっくりと落ち着いていくのが分かった。当然のように水は冷たく、それが彼を少しずつ現実の感覚に引き戻していく。今の必死に果実を追っている自分は、あの女性を殺して悦に浸るような狂人ではないのだと知らせてくれる。それは、涙が出るほどありがたかった。

 鼻の頭がむず痒くなりながらも、ようやく彼は果実に手を伸ばす。彼が湖面を大股に歩いたせいで、果実は少し岸より遠出まで旅をすることになったが、それでも十分帰ってこれる距離ではある。

 思わず泣いてしまった自分を情けなく思いながら、アキラは鼻水をすすって岸に戻ろうと水面を歩き出す。それというのも、人を殺す夢を見て完全に取り乱してしまった自分がいけないのだ。酔うのは気持ちよかったが、あんなに嬉しくない夢を見るとは、やはり酒に頼るのは考えものだ。

 そう厳しく心に決めた彼がようやく岸にたどり着くが、何か風景が違う気がしないでもない。というよりも、食い散らかした後が全くないし、木の配置が微妙に違う気がする。

 考え事をしていたから違うところに行ってしまったのかと納得すると、慌てて自分がいた湖面を探そうと再び湖の瀬に入っていく。何より靴を脱いでいる。このまま帰って土足は辛い。

 それから再び水音を辺り一体に響かせながら、彼は周囲を見回す。手に持った果実は体の熱でもう温かくなっているかもしれない。甘いものが温くなって更に甘くなるのは勘弁してほしい。

 再び果実を落としてしまいそうになり、屈み込みながら慌てて果実を掴んだところで、彼は見た。

 湖面に面した林の中に、一つ、白い脚が見えている。湖のほうを足元に置いて、眠っているらしい。

 そんな無防備なことをするのは誰だろうと思いながら、アキラはゆっくりとその脚に近づいていく。別に誘惑をされた気持ちはないが、その真っ白な脚が扇情的な線を持っていることは否定しない。

 ようやくその脚の持ち主の顔が見れるところまで近づくと、彼は息を呑んだ。

 白くきめ細やかな肌の、程よく肉付いた太股とふくらはぎを持つのは、彼が夢で殺した相手、リトル・スノー。

 普段は少し見える程度のスリットから、それらがこの女性から考えられないほど大胆に露わとなっている。どうやら眠っているらしく、腰の近くにサンダルが置かれており、肩が規則的に動いていた。その寝顔も木陰に隠れてよく見えないが、薄く唇を開けて眠っているようだ。

 それだけならば、確かに息を呑むにしてもそれだけで済むはずだった。急な色香に驚かされても、相手はここ一ヶ月は自分を苦しめるであろう相手だと思えば何とか冷静になれる自信はある。

 けれど彼が驚いたものは。

 その白く、一点の曇りもないはずの脚に、毒々しく赤黒い染みの上に灰色に蠢く寄生虫の卵ようなかさぶたに似たものが服の下から隠れるように見えていること。

 

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