いつの間にか寝ていたらしい。気がついたときには空と大地の狭間は朱色に染まり、金色の夕日が眩しくて思わず目を瞑った。 こんなところで眠ってしまうなんて、如何な自分とは言っても、それはさすがに無防備すぎると女性は内心笑ってしまう。そして外面上でも薄く笑みを作ろうと思ったが、下半身の痛みで口の端は引きつるように歪んだ。 浅くため息を吐いて、ゆっくりと上半身を起き上がらせる。 侵食される感覚は初日からあった。だがあと三日で半月を切ろうとしている現在で、皮膚にまで現れるとは今までの経験から基づくと少し早い。その理由は何なのか。今回と以前との違いは、少ないようで多かった。むしろ多すぎるから比べようがないのか。 少しずつ体を動きに慣らそうと慎重に動かしながら、眠っていたときのことを思い出す。何かが近くにいて、覚醒しそうになったかもしれないが、この森で鳥以外の小動物など見ただろうか。 今の女性は夢を見ない。器の中には既に冥界に巣を造る死者が入っているため、夢など見ることも出来ない。むしろ眠りではなく仮死状態と言ったほうが正しいか。意識が消え去るときとほぼ同時に、体の機能は完全に停止する。そして意識が復活する少し前に体は熱を取り戻す。それはどんな仕掛けか分からないが、もともとは死者である女性にとって、これ以上ないほどこの体は自分の状態を表すに相応しいものだった。 当然、体の機能が停止していれば、多くの場所の活動がぎこちない。だから死後硬直に近いのだろうと自らを納得させると、慎重に立ち上がる。眩暈も息切れもしない。ただ、走るのは厳禁だ。この体は激しい動きに適したものではないことは、前々回で判明済みだった。 そのくせに魔法は生前と同じ感覚で使えるらしいことにため息を吐くと、悲しいことを自然と思い出す。無傷で追い払うためとは言え、あの未熟な少年の暗殺者らしい彼が受けた衝撃は女性が思わず感じ取ってしまうほど大きかった。あれで彼が今後、魔術師に過剰な反応を示して歯車を狂わせることになったら、更に自分は罪深い存在となろう。死んでからも罪を増やすのは、――自分のせいで悲しい思いをする人を増やすのはご免だ。けれど、その被害者の一人はほんのすぐそばにいる。 今頃は宿で不貞寝でもしているのだろう。あの精神状態では何を言っても悪いほうに取ることは分かっているが、それでも詫びはしたかった。そのうちあの少年が謝罪を受け止めることは特定できてしまったが、それがいつなのかまでは見ていない。 なるべくでいい。なるべく早くに、自分の謝罪を受け止めて欲しいと切に願うが、その未来を見たときに感じたものは、やり切れなさだった。彼が女性を責めても今更どうしようもない、と諦めるように割り切ってしまっている気持ちが流れ込んで、それだと意味がないと首を振る。と同時に、嫌な予感がした。 ゆっくりとした足取りでもと来た道を戻っていくが、その足には重い感情が含まれている。 自分の秘密を彼に知られてしまうのは、女性自身、正直に言えば辛いことだ。特に今の彼の状態を考えれば、彼の憤りを卑怯な方法で削いでしまうことになる。一度は真っ向から本音をぶつけて貰えれば、それでも彼は何とか割り切れるかもしれない。だが、本音も言わせずに気持ちだけ不愉快なままで、自分のことを話すのはどうなのか。 いっそのこと、挑発して本音を暴露させてしまおうかと思うが、自分の思い通りになると知れば彼は更に憤慨しそうな気がしないでもない。まあ、その辺りは上手く誤魔化すことは可能だが。 それとも、彼が求めるような態度を取るか。しかし、それもあまり宜しくはない。相手の気持ちに沿って演じることは慣れとは言わずとも経験があるが、それならば結局のところ、彼の嫉妬の熱が下がるだけで、それが消化されてしまうわけではない。やはり、吐き出させることを目的としたほうがよさそうだ。 それから、そんなことを生真面目に考えている自分に、女性は思わず苦笑する。言い訳できないほど策士だ。それも自らの利益のためとはいえ、後々感謝されるように仕向けるなどとは、どうしようもないほどの偽善者ではないか。 とは言っても、女性は今更その偽善を自ら剥ぐつもりはなかった。気ままに生きる機会はもう数十年も昔に失われたし、それにこの身は死んでいる。死者が生前の生き方を変えるような真似をしても、単なる悪あがきにしかならない。醜いのはこの気持ちだけで十分だと、未練がましい思考を遮断する。 薄く笑ってふと顔を上げると、視線の先には濃い影に包まれた炎の色の光があった。宿の位置を示すランプの篝火だ。その色は素朴で、安っぽいと見なされがちではあるが、その分懐かしさを覚える。 寒国であった彼女の治めていた国では、その灯は国民にとって家族の命と同等の重みを持っていた。火種を失うことは即ち、自らの命も風前の灯になることを意味する。夜中に火種が消えたお陰で、コートをはためかせながら必死に走って隣の家に借りに行ったと、幼少時代のことを面白おかしく話していた侍女がいた。それでも、本当にその当時は必死であったのだろうと思わせるだけの気迫が、侍女の言葉にはあった。 この国は西側にあるにも関らず、気候としては温暖で、四季の変化を楽しむことができる。けれど、女性はその変化の兆しには立ち会えないことを少し残念に思う。 「贅沢ね」 現界できるだけでも贅沢な望みなのに、またそんな望みが出てくる。それは悲しいかな人間の宿命だ。本当に満たされた瞬間、生き物の心は成長を止める。 実際、彼女の心はいくら若い少女達と戯れようとも晴れることはない。冥界の闇の底にいる、儚くも鋭い眼光をした魔族の男と離れている限り。そして体を蝕む痛みは、女性の立場を一時も忘れさせることはない。お前は死者なのだと、お前は偽物の生き物なのだと、常に女性の内面に訴えかける。 ゆっくりと灯に向かって歩き出す。最愛のひとに無事に合間見えるため、一晩ずつを苦痛と共に越えなければならない。それが今の女性に残された行動だからだ。 空と森の境界線に、太陽の支配の終わりに見せる炎がますます濃く輝いていく。心地よかった風は深まる闇のせいか少し肌寒く、女性は思わず肩をすくめた。 それから森の入り口、宿の少し離れた散歩道に、甘い香りが漂っていることに気付いた。それは物質的なものではなく、精神的に甘え合う空気が女性にまで伝わっているだけのこと。 何故そんな空気が立ち込めているのかは、考えるだけ野暮である。女性は油断してその空気を感知してしまったことに苦笑しながら、そ知らぬ顔で散歩道とは正反対の方向を向く。同じ宿にいる若者たちの顔と名前は全員覚えたが、ここは聞こえてくる声や流れ込んでくる心の声すら無視してしまったほうがいい。もう既に死んだ身の上ではあるが、馬に蹴られるのはさすがにありがたくない。 不特定の男女は女性の存在に気付いたのか、急に声の調子が低くなる。その素直さに思わず笑い出しそうになったが、女性は少し胸が痛んだ。 彼らには未来がある。彼らにはまだ分からない困難や希望がある。彼らは自分たちの終結が全く分からない。 行き着くところまで行き着いた女性は、更なる発展を求めている訳ではない。何より、死者同士の関係が発展するなど笑い話にしかならない。けれど恋人たちにとっては真剣で、お互いの立場を揺るがす悩みや問題は、今の女性にはどうしようもなく羨ましく、微笑ましい。 そしてお互い子犬のようにじゃれ合いたくも、誇りや体裁がそれを許さない。けれどその気持ちは体の外へと滲み出て、どうしようもなく言動が相手に対し甘くなってしまうことがある。それは第三者から見れば呆れるほど情けなかろう。本人たちにとってそれは、蜜より甘露で愛しい時間であるのだが。 それから半自動的に、自分のことを思い出す。しかしその心に浮かび上がるのは懐かしさや相手への愛しさよりも、情欲に近い感覚だった。寂しさを埋めるためや、人肌の熱さが恋しくないわけではない。確かに異性を知らぬ身であればその欲望には気付かないだろうが、女性は男を――自分より力強いものに抱かれるその感覚を知っていた。 恋人たちの醸す空気は、女性の頬を火照らせる。彼らが奥底に持つのはただひたすらに甘え合う欲求。しかしそれは本人たちにとって何も淫らなものではなく、汗と熱と息が蕩け混ざり合う行いは砂漠に見える陽炎ほど遠い感情だった。だがそれは女性の体の奥底の疼きを、静かに理性を溶かす熱を与えていく。 自分が深入りしてしまってどうする、と女性は自らの失態に舌を打つが、それで火照り始めた身体が冷静になるものではない。身体を侵食する痛みは、このときばかりは快楽の案内人となってたちまちに消えてしまっている。自分を落ち着けるために足を止めて風を浴びるものの、その風の冷たさ以上に自分の体が熱いことを否応なく教えられる。興奮してしまっていることは明らかだった。 女性は必死に振り払おうとする。生前密かに貪っていた淫楽の記憶、または頭の中に浮かび上がってくる無数の猥雑なイメージを。やや乱暴に腕の中に収められ、また肩に唇の跡を付けられ、そんなときだけは優しげに動く指先の動きが、瞼の裏で女性を誘惑する。衣服を剥がされ寒くなった感覚、そんな身体を包む一瞬は冷たくとも芯は熱い肌。それらは女性の体に感触を再現し、更に女性の喘ぎを模した声が、猥らな感情を振り解こうとする女性に囁きかける。それは一人で自分を慰める姿を見るに近しい恥辱を掻き立てる。そして自分の声は耳をくすぐる。欲しくなれば誘えばいい、この体を否定する男なぞどこにもいやしない、と笑いかけ。 それに女性は正気に返る。この体。冥界の王が用意した、このとても便利な仮初の器。これに魂を宿している以上、思うがままに動くことは駄目なのだと言い聞かせる。 奔騰した感情は、少しずつ女性の中から消えていく。誘惑していた自らの欲望は、如何にも残念そうに霧散していき、代わりに罪の証のような痛みが戻ってきた。女性は今度こそ風で火照りを冷まそうと、大きな吐息と共に座り込む。 今の涼しい気候なら、夕食が近い時間であることもあって中で涼んでも構わないのだろうが、女性はつい先ほどの感情がぶり返すことを恐れていた。自分の気持ちを読める者はあの中にはいないだろうが、それでも彼らに自分のはしたない感情を晒してしまうほど変態的な趣向は持たない。 丁度傍にあった大木の根に背を預け、そのまま風を身体に浴びる。痛みすら受け入れ、何も考えずその心地よさに目を細めていると、誰かが自分を呼ぶのが分かった。但し声で呼ぶのではなく、心の中で自分に声をかけたようだった。そんなことを意識的に、こちらに分かるようにするのは、知り得る限りでただ一人だ。 「どうかしたか?」 無表情に程近いが、椿色の目の奥には優しさを見せてヒロが近くまで歩いてくる。散歩らしいのでさすがに鎌は持っていないが、手持ち無沙汰らしく腕は落ち着きがない。そういえば、生前も彼女が武器を持たないままでいる姿はあまり見かけなかったように思う。 「少し疲れたみたい」 嘘ではないが、本当でもない言葉を返すと、ヒロは少し呆れたような顔を女性に向ける。 「スノーは華奢だからな。無理をすれば倒れそうだ」 「これでも、一応戦っていたことはあるんだけど…?あなたがその場にいたら、まともに戦えないのはどっちかしら」 悪戯っぽく女性が笑いかけると、ヒロは大げさに眉をしかめた。確かに同じ戦場の味方として二人が一緒にいれば、女性に対し心配で気を揉み過ぎて、ヒロのほうが正常な判断が下せそうにない。 そんなからかわれ方をされてしまった、第一次大戦時から大陸に名を轟かす爆炎の申し子は、複雑そうな顔をして口の中で聞き取れないことを呟く。それに、今度は女性が呆れたように笑った。何を言いたいのかはこちらにまで聞こえてこないが、その態度で何を言いたいか、意図は読み取れる。 「そんなに頼りない?」 「そんなことはない。けど、スノーが好きだから不安になる」 純粋かつ単純に自分を思う言葉を投げかけられ、女性は一瞬戸惑った。ヒロの言葉は、良かれ悪かれ真っ直ぐだ。いくら年月が流れようと、それだけは変わりがないらしい。それとも、今の仲間たちとはまた違った付き合い方をしているのだろうか。古い友人である自分だからこそ、あのときのままの表現でいてくれるのだろうか。 それから、女性はヒロが羨ましくなる。生きているから、ということではなく、想いを言葉に変換する方法の、その素直さが尊く眩しい。外交のためと言いながら、相手を傷つけたくないからと言いながら、敵を無闇に作りたくないからと言いながら、間接的な意味の言葉を用いてしか会話できない自分が疎ましい。 「わたしもあなたが好きよ、ヒロ」 女性の言葉に含んだ意味を受け止めたのか、それとも単純にその言葉だけを受け止めたのか、ヒロは軽く頷いた。心なしか、その顔は満足気に見える。 しかし、何か嫌なことでも思い出したのか、軽く眉をしかめ、健康的な唇からため息を漏らす。怒りと諦めが入り混じったヒロの感情の向こうに、見覚えのある顔が浮かび上がる。無愛想を貫こうとする瞳に、やりきれなさを背負ったような表情。未熟で優しく、自分の存在はエゴのみで構築されていると思い込む少年だ。 「お前を好きになろうとしない奴もいるけどな」 最近何かあったらしく、ヒロの記憶が強く浮かび上がる。女性が感知しようとしなくとも、それはヒロが知ってもらいたいと暗に思っているのか、やけにはっきりとしたイメージが伝わってくる。眼前に項垂れ、苛立つように何かを叫ぶあの少年のイメージだ。 「あの子は、きっと自分の中で色んな問題を解決できないでいるから、他人のことにまで気を使っていられないんでしょう」 にあの未熟な異界の魂を、間接的にとは言えどフォローされることすらヒロは嬉しくないようだ。更に不機嫌そうな顔をして、女性の隣に座り込む。 「異界の魂と聞いたとき、お前と同じような性格だと思った。一目見たとき、そんな考えは間違っていると早々に気付かされたがな」 それはさすがにないだろう、と女性は思う。もし自分と同じような性格の異界の魂であれば、可愛げがないことこの上ない。だからと言って、件の少年が可愛らしいか問われれば少し返答に困る。 「わたしは、この世界に来るときにこの世界がどんなものか知ってしまっていたから。彼は、きっと何も知らない」 「きっとじゃない。本当に、何も知らない」 力強く断言するヒロに、思わず女性は苦笑した。どうやら、あの少年は彼女のご期待に添えない言葉を吐いてしまったようだ。――それでも自分のように、人の心を覗き見てごまをすることに慣れてしまうよりはよっぽどいい、と女性は密かに思う。 「そうでしょうね。自分より不幸な人の存在も、苦しんでいる人の存在も、全く分かっていない。けど、それが普通でしょう」 だからむしろ、あの少年は幸福なのだ。正々堂々と自惚れ、仲間に甘えることができ、また仲間もそれを甘受する。自分より不幸な例を見てしまったため自惚れることも不幸に酔うこともできず、甘えようとすれば脅されるかプレッシャーをかけられていた我が身よりも、よほど健康的な環境にいる。しかし、恵まれた環境は恵まれているなりに、問題が発生するらしい。 「大体、ここにはいいように考えすぎる奴がここには多すぎる。誰も公平にものを見て、誰かを叱る奴がいない」 「ヒロはそうじゃないの?」 それを言われて、ヒロは一瞬苦い顔を見せ、それから重い吐息をつく。その心中はなかなかに複雑なようだ。 「叱るほど人間関係ができてない。わざわざ誰かに説教だけをするのも、趣味じゃない」 「確かにね」 他人に説教だけをしたり、自分のことを棚に上げて批評する者の道化を、女性たちは知らないわけではない。確かに武将でもそんな者がいたが、実際のところ、中流階級の国民の大抵がそういうものだった。こちらの詳しい事情が分かってもいないのに、やたら批判をして、それが最も正しい意見だと思い込む。その通りに出来れば、政治など必要なかろうと思える意見が大半であるのだが。 「だったら、全く叱らないの?」 「叱る。機会があるなら」 その強固な言い方に、再び女性はあの少年を思い出す。そして、機会があるから最近叱ったのだなと、また相手が反省しなかったから機嫌が悪そうだったのかと、密かに納得する。 「あのね、ヒロ。彼は頭ごなしに叱っちゃだめよ」 「お前も甘やかしておいたほうがいいと言うのか?ますます悪くなるぞ」 「そういうことじゃないの…」 まるで子育ての方向性を相談する親のような会話だが、本人たちは至って真面目だ。女性はため息を吐きながら、酷く裏切られたような顔をしているヒロが納得するような言葉を選ぶ――やはり、そんな方法でしか相手の怒りを削ぐことができない自分が、卑怯に感じるが。 「自分だけの生き方を、彼はまだ自分で見出していないの」 そう言われて、ヒロは多少腑に落ちたものがあるらしい。軽くなるほど、と頷いてそれから鼻で笑った。 「あいつはまだ、他人の意見を借りてしか動けないということか」 「そうね。彼は、この世界に何の感情も抱けない状態で使命を持ち出された。今まで義務でしか周囲に認められるかたちで動けなかったのに、急に使命を他人によって持ち出されたの。自分でその本質を考え、決断する余裕すら与えられていない。逆に自分の意思などどうでもいいと言われて、抑圧された反抗心で自分の考えを持てた例はここにいるけど…」 そうして昔を思い出したのか軽やかな笑みを浮かべる女性とは対照的に、そんなことをこの華奢な女性に強いた人物をますます憎らしく思っているらしいヒロは眉をしかめる。 「だから彼は、好きなようにしろと周囲に言われてはいるみたいけど、やるべきことは結局決まっているの。本当に大切なものの選択権は、彼以外の者が持つ。彼は巻き込まれただけで、都合のいいときだけに使われる羅針盤でしかない。けれどその羅針盤には皆忠実。彼も多分、その矛盾を感じているんでしょう。だからこそ、どうすればいいのか分からない」 その言葉に、ヒロは何ともいえないため息で納得する。 彼を明らかに拘束する者は、確かにこの旅の一同の中では誰一人いまい。だが、全員がやんわりと彼を逃がさないように拘束しているのが現状なのだ。当然と言えば当然。このまま放っておけば、自分たちの世界が得体の知れない神に壊されてしまうのだ。その鍵を持つのが、この世界に愛着は持たずともそこに存在している異界の魂。自分たちごと世界が壊されることに比べれば、一人の異界人の意思など、――乱暴な言い方をしてしまえば――どうでもいい。 それでも仲間たちに罪悪感はあまり湧かない。それが使命ならば受け入れて当然だからだ。そして彼は迷いを誰にも持ち出さなかった。そのためか、仲間たちは心の準備など彼はもう済ませていると思い込んだからこそ、前回のような事件があったのだが。 自分で気付かない使命など、義務とどこが違うのだとヒロは思う。そして課せられた義務と目覚めた使命による行動の責任の差は、本人が自覚している以上に重い。そしてあの少年は、この使命をまだ義務としてしか捕らえていなかった。 「もし、あいつがそれを自覚すれば、あの腑抜けた性格は何とかなると思うか?」 「分からないわ。けど、危険な賭けね。言い方は悪いけど、仲間だと思っていた人たちから、道具だと思われていた、なんて、誰が聞いても嬉しいものじゃないでしょう」 むしろそれを知れば、あの少年が本格的に荒れる姿など簡単に想像できる。決して得がたく、代理の効かない道具であっても、彼の気持ちは傷ついたままだろう。 「実際、道具なんだがな。どれだけ意思を持とうが、歴史の中では歯車の一つに過ぎない。お前も、わたしも」 「そうね。問題は、自分の意思で道具であることを自覚し、動けるかどうか。むしろ、仲間も道具や、パーツの一つでしかない、ということに自分で気がつくかどうか、かしら」 軽く首を傾げて自分の言葉を確認する女性に、ヒロも軽く首を傾げた。その表現方法に相違はあるまい。ただ大切なことは、とても簡素でありきたりな言葉であることは事実だ。 「……事実はえてして単純、か。それにあいつが自力で辿り着くのは何年かかるかな」 「興味があるならあなたが見る?」 「断る。あいつ以外の男にはもう踏み込まないと決めた」 軽く返した言葉ではあるが、それ以上に裏に秘め、蓄積された感情に女性は一瞬はっとする。女性が思わず見返したヒロは、穏やかに濡れた赤い目で、気にさせてしまったことを後悔するようにほろ苦く笑った。 「気にするな」 ただ短く。もう、終わったことなのだと。その言葉の裏には万の想いを籠めながら。 それでも女性の心はきつく締め付けられる。言葉の裏にある想いをそのまま受け止められてしまうからこそ、軽い口調で尋ねた自分を、激しく静かに呪う。 「……ごめんなさい……」 女性は小さく囁いて、隣に座っている魔族の女性の手をきつく握り締める。その圧力に、彼女は薄く笑う。震える肩に込められた謝罪の気持ちだけで、女性が彼女の疵口に触れてしまったことをいかに反省しているのかがよく分かった。 女性二人はゆっくりと歩いていた。宿屋の煙突からはミルクかチーズに似た濃厚な香りが広がって、今晩の夕食が何なのか、想像力をかきたてる。 もうすっかり空は夜のものになっているからか、外から見ればいかにも賑やかそうに窓から漏れる光が踊っている。二階の窓も所々に明かりが灯り、仮の家に日々生きる者たちは夕食前の時間を思い思いに過ごしていることだろう。 そんな光景は、彼女たちが現役で戦場に立っていたときは程遠いものだった。一国一城を守る王なれば、お忍びぐらいでしか宿など利用しないし、したとしても王城と何ら変わりのないような部屋が並ぶ豪華なホテルだ。軍単位で動くとなれば、貴族の屋敷や砦に仮住まいをするのが当然だった。彼らが今泊まっているように、経営している家族がそのまま従業員として働く宿屋は、正直に言って選択肢外のところにあった。 「けど、こういうところも気持ちいいものね」 満足げに微笑む女性と違い、ヒロのほうは気安く人付き合いができる性格ではないので、難しい顔で俯く。 「気持ちいいか?昼近くまで寝てると起こしに来るから面倒だ」 「それは単にあなたがずぼらなだけでしょう?かの爆炎の申し子が朝寝坊の常連、なんて知ったら、当時の君主は誰だって目を剥くわ」 母が子を叱るように人差し指を立てる女性に、ヒロも多少は後ろめたい気持ちになっているらしい。口先を尖らせ小さく唸った。 「別に、もう人間と魔族の確執も表立って出てないし、戦がなければわたしの出番はない。寝る時間ぐらいは好きにさせろ」 「他の人の迷惑にならない範囲の寝坊なら構わないでしょうね。生活サイクルが弛んでいる、と取れるだけだもの」 「お前な…」 手痛い言葉が続々と続いたが、ヒロは女性がそういう性格であることは分かっているので強いことは言えない。ここで開き直るか更に言い訳を重ねれば、倍返しは目に見えている。 とりあえず、賢くやり過ごすには黙りの一手しかない。そう思って唇を曲げ、ひたすらに押し黙るヒロに、女性は吹き出しそうになりながら宿屋のドアを開けた。闇に慣れた目にも、ロビーの明かりは強すぎないが、ロビーそのものは暗くも感じない。 奥の食堂は当然賑やかだったが、誰かを待っているのか何人かの少女たちがロビーでくつろいでいた。彼女たちはたちこめるシチューの香りに何の反応も示していないため、夕食はすでに食べ終わったようだ。 「こんばんは」 「今晩は、スノー様、ヒロ様」 「あ…」 紫の髪をおかっぱにした少女が礼儀正しく頭を下げる。その隣にいるナギも会釈はしたが、女性の後ろにヒロがいたとは思わなかったらしく、挨拶を発する余裕までは生まれなかったようだ。 「今日はホワイトシチュー?匂いがここまで届いているみたい…」 「正確にはシチューの壷焼きです。きのこがたっぷりですよ」 珍しく表情を露にしている――怪しげな笑みを浮かべるノーラの隣には、疲労困憊しているらしいナギが自分の肩を擦っている。まるで十代の少女のする仕草ではないが、その顔つきから察するに、かなり疲れているようだ。 「ノーラのきのこ狩りに付き合わされて…もうお風呂入りたいぃ…」 「ついた餅より心持ち」 「いやそりゃ美味しかったけどさ。そーいうことは自分で言うなっての…」 すましたノーラの発言に、ソファに寝転んだままナギは更に肩を落とす。女性はそんなやり取りをくすくすと笑ったまま眺めていたが、後ろにいるヒロのことを思い出して再び足を動かす。若者たちとのやり取りに慣れていないヒロは、会話に介入することを放棄している様子だったが、だからといっていつまでも待たせていいとは女性も思っていない。 「わたしたちも美味しく頂いてくるわ。きのこ狩り、お疲れ様」 「いってらっしゃいませ」 「はーい」 馬鹿丁寧なノーラの挨拶と、気の抜けたナギの声に見送られ、二人は奥の食堂を目指す。廊下は広いとは言い切れず、二人が並んで歩くことは困難だった。特に細身のワンピース姿の女性とは違い、ヒロのほうは飾り気があまりない服装ではあるがスカートは裾が広がったタイプのものである。無理に並んで窮屈な思いはしたくないため、自然と女性の後ろを歩くかたちになった。 途中、一人の少年とかち合った。どうやら自室へと帰っていくつもりだったらしいが、まさか本人は女性が遅れて食堂にやって来るとは思わなかったのだろう。彼自身、宿屋に帰ってからは、食堂が賑やかになってきた辺りでようやく自室から出てきたのだから、入れ違いになったのだろうと油断していた。 そして顔を合わせた異界の魂の二人は、やや唐突な偶然に少したじろいだ。どちらが純粋に驚いた顔で、どちらが明らかに嫌そうな顔をしたのかは、言うまでもない。そして、どちらのほうが切り替えが早いのかも、言及の必要はない。 「ごめんなさいね」 軽く微笑み女性が少年と食堂の入り口の隙間を縫うようにして歩き出す。その後ろについたヒロも、特に何も気にすることなく同じように少年と入り口の隙間に入り込もうとした。 「……あ」 ようやく少年が我に返る。そしてその瞬間、背後から強烈な印象を持って流れ込んでくる映像に、女性は思わず足を止めた。 熟れきり皮が裂けた赤い果実に、白い羽虫が浅ましく群がるようなヴィジョン。だがそれは実際は果実などではない。生き物だ。人間の脚に現れた異常の証だ。女性の右の内太股に現れた、醜い蝕みの証拠だ。 女性はゆっくりと振り返る。それを本当に見てしまったのは少年なのかと確認するように。 そして何の感情も映し出されていない真っ青なだけの瞳を向けられ、少年は思わず硬直した。いつもなら、幼稚な嫉妬か荒んだ気持ちがこみ上げるはずなのに、その強い色彩を持つ青い目は、彼の感情ごと封じてしまう。足も首も、一つたりともその目を向けられて動ける箇所などありはしなかった。そうして、一瞬女性の顔を見ることで思い出してしまった昼間の光景を、再び嫌が応にも思い出してしまう。吐き気と寒気を催すような、腐った人肉の中に蛆虫の卵を発見してしまった気分にさせる、あの醜い脚の付け根。 当然のように今の女性は、どこにもそんな醜い箇所などない。簡素な服装に、染み一つさえ付けず、純白のまま佇んでいる。けれどあれが夢や幻覚でもなければ、その内部にはおぞましいものが巣食っているのだ。思い出したくもないものを、更に彼は強く思い出さされる。目が離せない青の瞳が、まるであの忘れたい気持ち悪さを表に引きずり出そうとしているようだった。 「スノー?」 女性の後ろにいたはずのヒロが、そう声をかける。その口調から、女性が何かを嗅ぎつけたことは分かっても、当然考えていることは分からない。 友人は瞬き一つせず感情一つ浮かべず少年を見、その強い視線を当てられた少年は、恐れているようだが抵抗もできず棒立ちになっている。ヒロはただ二人の異界の魂を――いつもなら控えめに笑っているはずの友人と、俺は不完全なんだと全身から自己申告している鬱陶しい子どもが、今は珍しいくらい態度を豹変させている姿を見ることしかできない。 女性の瞳がもとの輝きを取り戻す。その変換は一瞬で、錯覚でも見ていたのかと思わせるほど素早いが、ヒロは自分の感覚を信じていた。それでも、女性が元に戻ったことに彼女は少なからず安心する。 少年は、まだ自分を襲った恐れに似た理解できない圧迫感から体が逃れることが出来ないようだった。恐怖の原因すら分かっていないのだから、まだ体は混乱しているのだろう。そしてその硬直を解き放ったのは、彼をそうさせた張本人だった。細い手で彼の腕を掴むと、食堂を越えて、人気のまったくない井戸に面した勝手口まで少年を連れて行こうとする。 「ごめんなさい、ヒロ。すぐ戻るわ」 「分かった」 いつもの笑みを見せられるものの、自分が介入すべき問題ではないことをヒロはすぐさま悟る。自分も何かがあった際は当事者外の者がいる状態を嫌うので、首を突っ込むような馬鹿な真似はしまいと言い聞かせ、トレイを二つ持ってカウンターに並んだ。 ヒロが視線を向けた食堂内は、悲しいことか幸いなことか、誰も彼らを気にしなかったらしい。食堂に自分たちが入ってきたときと同じ騒がしさで、二人が去った後ですら不変のままでいた。 そして思った以上の力で女性に半ば引きずられたアキラは、女性が立ち止まったところでようやく混乱から覚めたらしい。それとも彼を正気に戻したのは外の空気の涼しさか、落ち着いた夜闇か。 この細い腕にここまで自分が引っ張られるとは思っていなかったが、そんな驚きを呑気にしている場合ではない。あの醜い皮膚を持つ女性に触られていると認識するだけで、女性が実はとんでもなく気味の悪いものではないのかとすら思った。 「おい、あんたな……」 「あれを見た?」 急に何をする、という文句も言わせず、女性は落ち着いた表情のまま彼のほうに振り返る。その顔は平静だった。今はその瞳は怖くもないが、優しげとも言い難い。ただ、何の感情も抱かず、確認の意思だけで彼を見ているに過ぎないことを教えられる。 そして同時に、その瞳は圧迫感を持っていた。その強さに、思わず彼は目を逸らす。傲慢とは言い切れないが、答える義務を当然のものとして強要しているように感じさせる。学校の教師にはこんな目をする者はいなかったが、もう既に死んだ祖父がこんな感じだったと、少年は昔のことを思い出す。そして祖父の思い出でも、結局この女性と同じ反応をしてしまっていた自分に気がついた。あのときから、自分は成長したのだろうかと不安になるくらい、あのときと同じ胸騒ぎが自分を包む。 それから、食事の直後のはずなのに、乾いた口がゆっくりと動く。何も悪いことはしていないはずなのに、何故ここまで自分が緊張せねばならないのかと不思議に思いながら。 「………見た」 「そう。……わかったわ、後で説明しましょう」 ため息一つと共に漏れた言葉に、彼は恐る恐る視線を上げる。眼前の女性は、少し困ったような顔をしていた。今の姿は緊張も威圧感も放たず、ただ苦笑を浮かべて自らの失態に困り果てているように見えた。どうやら、自分を怒る気はないらしいと知り、少し安心する。だが次の瞬間には、どうしてこんなところで安心せねばならないのだという疑問が浮かび上がった。同時に、説明、という言葉が気にかかる。 「知りたくないのなら、見なかったことにしてくれればいいわ」 ――そのほうが、わたしも楽だから。 そんな気持ちが籠められたように感じる発言に、彼は一瞬馬鹿にされているような気持ちになる。自分は扱いやすい奴なのだと、手のひらで躍らせることは至極簡単で単純な人間なのだと、暗に挑発されている気分が胸を悪くする。 「教えろ。あれは何だ」 「ええ、教えましょう。けど、ヒロを待たせているから今はだめ」 反骨精神で彼が問うても、それも想定内のことであるかのように、女性はやんわりと首を降る。どこまでも女性の思う壺のような気がして、彼は怒りが全身に込み上げてくる。そしてその感情ですら、女性は分かっているようにやたらと落ち着いていた。 「場所は三階のテラス。時間はいつでも構わないけど、静かになった頃には来ます。あなたが心配するなら武器を持ってきても構わない」 女性は淡々と述べる。彼の感情を分かっていながらそれすら無視して、事務的に。 その目は思った以上に冷たい。まるで今まで多くの仲間たちと楽しそうにしていた女性は仮面であって、本性はこれではないのかと思ってしまうほどに、その表情は何の感情も含んでいなかった。 「じゃあ、また何時間か後に――」 踊るように踵を返し、女性は明るい食堂のほうへと向かっていく。そのときの顔はもう見えなかったが、女性の態度の豹変振りに驚き、苛立ち、怒りさえ持つ彼には、そんなものは最早どうでもよかった。 それまでにあったあの異常な皮膚への恐れも、女性への嫉妬も激しい劣等感もこのときばかりは忘れ、自分を手のひらで操る女性の背中を、視線を刻み付けるように睨んでいた。 |