Elegant homicide

 

 皆が皆寝静まったわけではないだろうが、確実に部屋の外が静かになったことを確認すると、アキラはゆっくりと布団を剥いで起き上がる。

 一応いつもよりも少し早い時間にベッドに潜ったが、実際は怒りが収まらないままで、仮眠を取れるはずもなかった。相部屋の空夜が就寝するまで能天気に愛刀の手入れをしている音が常に聞こえてきて、その音にすら神経を尖らせていた。その音やいつ相手が寝るのかといった心配からも解放され、今ようやく気を落ち着かせることが出来る。

 普段はベッドの中が一番安心できるのに、今夜だけは違った。普段目に入る女性のものとは全く違う表情で、事務的に告げられた秘密の会合のことを思い出す。むしろ、今晩はそれしか頭になかったから、ベッドの中でも緊張と怒りを張り巡らせていたのだが。

 三階に行くにはもうそろそろいい時間だろうと思い、なるべく物音を立てずベッドから降り立ち、靴を履く。

 二人きりで話すのは初めてだし、今でも冷静にあの女性の話を聞ける自信もないが、アキラは早く事情が知りたくて仕方がなかった。そうしてとっとと悪者になってもらいたい、とも思っていた。

 当然、自分にとっての悪者ではなく、世界にとっての悪者だ。そうであれば完全に嫌悪できるし、ベッドに入る前に服の中に忍び入れ、今は片手に持ったミスリルソードで一気に斬りつけることも出来る。人間を殺すのは嫌だが、モンスターが相手だと思えば大丈夫なはずだ。何せ、相手は既に死んでいる立場なのだから、一度や二度死ぬぐらい、きっと何ともない。

 静かにドアを閉めると、本当に大部分の仲間たちが寝静まっていることが分かった。どの部屋も物音も話し声も特に聞こえず、人がいる空気――気配というものかもしれない――だけが粛々とこの階一体に広がっている。下の階でまだ飲んでいる大人がいるようだが、それも遠くにしか聞こえない。

 自分の足音だけがやけにはっきりと聞こえて、しかも廊下は夜空と同じ暗さでいるせいか、アキラはその静けさに少し鼓動が早くなった。

 しかし、夜の散歩に出かけようと思ったときにはそんな恐怖などなかったのに、何故今頃になって怖がるのか。相手があのリトル・スノーだからか。

 そう思うと、アキラは自分に対し、冷静で厳しい態度を取る。それぐらいで怖がるな。相手がいくら凄いと聞いていても、それは生前の話で、今もそうなのかは分からないし、具体的に強かったことは聞かなかったはずだ。それに、あの細腕で自分の剣を何とかできるなんて、考えられない。そう自分を説得する言葉を並べると、三階へと一歩ずつ近づいていく。

 鼓動が早くなっている理由を、アキラはよく分かっていた。悪者でいてほしいとは思っていたが、本当にそうなら自分は勝てるのかとも思うし、仲間たちに好かれていた女性を殺してしまうのは恐ろしい。仲間から恨まれればどうしようと思い、陰口を叩かれるかもしれないのがとてつもなく怖い。あんなに堂々と己が正義を掲げる彼らは、人殺しなど受け入れてくれるのか。何よりも、モンスターだというのは建前で、醜い感情から殺してしまったと思われでもすれば、自分はどうなってしまうのだろうか。

 一瞬、階段に踏み入れていた足が止まった。相手が悪者であれば躊躇なく殺してしまおうなどと思っていた、さっきまでの自分が急に怖くなる。そんなはずじゃなかったのに、――いくら自分を召還した連中が憎かろうと、ここまで卑怯な感情は、持っていなかったはずなのに。

 不完全だと知られ、建物から摘み出されて最初の刺客を放たれたときだって、止めを刺すことはなかった。クリングゾールが放ってくる兵士達も、人間の姿をしているが死人を操った人形兵のようなものだと説明され、彼自身が生きている人間を殺すことなど一度もなかった。なのに、今さっきまでは、あの女性がモンスターと同じものであることを望み、早く殺させてくれとすら思っていた。自分は人殺しなんかじゃないと、あの悪夢を見たときですら安心したのに、今は人殺しになることを望んでしまっているというのか。いくら相手が死人であっても、今はちゃんと生きているのに。自分がまだ活動できる人を殺したという感覚は、恐らく一生消えはしないだろうに。

 こんなふうになってしまうのもやっぱり、全ての原因であるあの女性が現れたせいだ。アキラはそう深く長いため息をつくと、一気に殺気が削げていくのが分かった。

 ここまで自分が醜いとは思わなかった。ここまで狂ってしまった自分に絶望した。それを思い知っても、何にも嬉しくないし、何の足しにもならない。何より、弱い自分は今までいやというほど見てきた。ここまでくればもう沢山だ。話は聞くだけで、もうあの女性とは何も関わらないでおこうと心に強く思う。それが最も、傷つかないで済む賢い方法なのだと、改めて自分に言い聞かせて。

 だからこれは、最後の付き合いなのだと自分を奮い立たせると、アキラの足はようやく動きを再開した。自棄に等しい足取りで残りの階段を上がり、やや乱暴ともいえる勢いでドアを開ける。そして、風が頬に当たった。

 風の強さに目を瞑り、再びゆっくりと瞼を開くと、眼前にそのひとは立っていた。

 今まで街の眺望でも見ていたのか、テラスの手すりに腕を預け、少し崩れた姿勢だった。夜風に靡く銀髪は、風の強さのせいか少し乱れ、その奥に潜む表情は物憂げで、人待ち顔というよりも、深い考え事をしているように見える。

 そしてリトル・スノーは背後に立つアキラに気付いたのだろう。我に返ったような顔を見せて、ゆっくりと彼のほうに体ごと振り向いた。その表情に映し出されているものは、今の彼には判断がつかないほど多くのものが入り混じっている。憐れむようでもあり、悲しむようでもあり、挑発するようでも、嘲笑うようでも、眩しいものを見るようにも見える。

 口元にようやく判断がつくほどの笑みを浮かべると、女性はそのまま口を開く。その表情にようやく彼は気が付いた。いつも他の仲間たちに見せている表情も、口元に浮かべる笑みさえなければ実はこれと変わりがないことに。

「こんばんは、『不完全な異界の魂』」

 しかし出てきたのは、この世界で最も深く彼の心を抉る言葉。外観はあくまで美しくたおやかな、その上『完全な異界の魂』からのその発言に、彼は言葉を失った。

 だが眼前の女性は、自分の発言に特に気にすることなどなかったようだ。否、女性にとって彼が『不完全』との烙印を押されることは当然なのだろう。ほんの少し驚いたような顔を見せて、それから笑った。まるで悪戯っ子のような無邪気さで。

「変な子。自分でそう思っていたくせに、他人に言われるのは辛いの?」

 当然だ。自分で自分を貶すことと、他人に貶されることは全く違う。前者は単なる自己陶酔の一種であるが、後者はそれが第三者すら認めるほど無力であるということになる。そんなことを、よりにもよって『完全な異界の魂』として君臨してきたリトル・スノーに言われるなんて、アキラは思ってもいなかった。しかも相手は彼を鼻で笑うようでも見下すようでもなく、まるでそれが自然の摂理であるように告げたのだ。

 衝撃からようやく立ち直り、それでもまだ混乱が思考にしがみついたままだったが、アキラは好き勝手に言われるつもりはなかった。焦りに舌がもつれたが、何としてでも否定せねばならない。しかし、否定するにしてもいい言葉が出てこない。だから結局は、相手の言いたい放題になってしまう。

「そうよね。あなたは人としても不完全だもの。『異界の魂』として不完全でいて当然。全くもって、完全なんて驕ることはできないほど不完全であり、未熟」

 まるで当たり前のことのように。相変わらず、誰にでも見せる優しい表情のまま、リトル・スノーは、『完全な異界の魂』は、彼の心の傷を抉る。

 その姿は夜の帳に美しく咲く青白い花のようであり、完全に人を超越した生き物のようにも見える。彼如きの人間の心を抉って当然の立場であるように。否、彼如き、人としても不完全な生き物など、踏み躙ったところで、女性には恐らく何の落ち度もないと錯覚させるように。

 それはますます彼の舌をもつれさせる。リトル・スノーの言葉を受けるたび、彼の視界は衝撃で白くなる。戦いのときに瀕死の重傷を負ったことも、気絶したこともある。しかしそれよりも、今投げかけられている言葉はどれほど彼の悲しみを煽り、怒りを煽るか。

 もう既に、胸の中は彼が抑え込める範囲の感情などはない。あるのは洪水に近い濁流。心の受け皿など忘れ去り、早く外に出せと彼の内面全てを引っ掻き回す。いい言葉なんてどうでもいいから、相手に利くような言葉はないのか。堂々とした反撃の言葉はないのか。否、そんなことを探っているなら、まだ余裕があるということ。けれどどうでもいい。だから、早く、相手を打ち負かせるような言葉を。自分がいかに苦しんでいるか、この女に思い知らされる言葉を――。

「あんたに、何が分かるんだ」

 けれど結局出てくるのは、そんな陳腐でありきたりな言葉。何も分かっていないくせに、慰めてこようとする仲間たちによく使った、甘えの言葉。ここですら、出てくるのはそんな逃げなのか。

 リトル・スノーの表情は変わらない。不気味で苛立つほどに、優しげににこにこと笑っている。それどころか、彼の必死の発言に、可愛らしく小首を傾げて見せた。可愛らしい、と思わせる白々しさがまた憎悪と屈辱を呼ぶ。

「何のこと?」

 まるで自分の苦しみを分かっていないその表情。その顔を見たときには、アキラの中には何の遠慮もなかった。いくら自分が想像もつかないような苦しみを相手が味わっていようが、今先ほど、眼前で自分にかけられた敗北感より勝るものはない。ここで飲み込めば、自分がどうなるのかも分かりはしない。だから、何も考えず言葉は出てきた。

「俺が…俺は強かったんだ。高校入るまで、同い年でも上段者でも、誰も勝てないって言われて、本当に、誰も勝てなかったんだ」

 不意に出てきた言葉に、彼は一瞬自分で自分が分からなくなった。なんでそんな昔のことを持ち出すのか。そんな、チキュウに戻らなきゃ解決しようがない出来事なんてどうでもいい。それよりも、今はもっと辛いことがあるはずだ。だからそれを語ろうと思っても、勢いは止められなかった。

「けど、あいつはすんなり勝っていきやがった。何度やってもあいつが勝って、そのくせ、負けた俺を構うんだ。負けた奴に取り入って楽しいかよ。どうせ俺をパシろうとか思ってんだろ。パシりたきゃ他の奴を探せよ。俺がお前に直接負けたからパシる気なんだろうけどさ……ああそうだよ、負けたよ!勝つことが全てじゃないとか言ってるのは負け惜しみだろ!?負ければ惨めなだけだろ、何だよそれも勉強って、努力しろって!」

 傲慢な言葉なのは理屈で考えて分かっていた。だから誰にも吐き出さなかった。そして負けることも勉強などと、理解できるほど柔軟な強さや誇りは持ち合わせていなかった。――まだ、子どもだったし、今も子どもなのだ。

 常に勝っていたかった。こだわりを持って勝負に挑んだくせに、全ての意地や誇りを捨てて勝負に臨んだ気でいた。けれど勝ち方にこだわっていた点で、何としてでも勝利をもぎとるつもりではなかったのだ。――結局、珍しく汗水たらして練習している自分に酔っていただけのこと。そして自ら勝利への視野を狭めていただけの話。

 天才だと思いたかった。一度負けても確実に勝つ人生を送りたかった。他のことは負けっぱなしだって構わない。ただそれだけが、自分が今まで得意としてきたことが、自分の自慢になればよかった。――相手の才能に嫉妬すること以前に、相手が本気で才能だけで伸し上がってきたかどうかも確認しないままだった。自己満足で練習を重ね、相手の実力を冷静に推し量ることも出来ず、何が努力タイプだ。目隠し猪じゃないか。

「俺はそうじゃなきゃ嫌だったんだよ!真正面から、小手先なんか使わないで、力技だけで勝っていきたかったんだ!けど何だよ…なんで今更、お前がそうじゃダメだって言えるんだよ!!だったらもっと早く俺の前に来いよ!なんで変に気使いながら来るんだよ!」

 吐き出す度にアキラは気づいていく。未熟な自分。傲慢な自分。弱い自分。今はそれを完全に脱却したとは言い切れない。むしろ、吐き出したいだけ吐き出して、後は全く変わらないのかしれない。けれど吐き出した言葉は止まらなかった。

 適当な理由をつけて抑え込まれた感情は、その理由すらも破壊しきって外気に曝され、告白というかたちとして現れる。しかしそれは懺悔でも慟哭でもなく、不完全燃焼のまま心の底に沈められた、長く積もったヘドロに近い。ならばこの叫びは、感情の暴走は、その泥を一掃するための洪水なのか。それとも、掻き回して霧散させ、汚泥をなくすだけで、いつかまたヘドロを復活させてしまう時間稼ぎに他ならないのか。それはアキラ本人も、誰にも分からないことだった。

「そんな奴に構われたくなくてバイク乗ってれば、今度は何だよ。『異界の魂』?ネバーランド?何だよそれ。俺をそんなもんに巻き込むなよ。しかも勝手に俺を連れて来たくせに、期待外れ?不完全?ああそうかよ、こっちでもそうか!俺はずっと負け組か!」

 そう吐き出して、思わず口元に笑みが浮かんだ。当然、爽やかなんてものではない。自嘲を含んだ痛々しくも荒っぽく歪んだ笑みだった。

「なんで俺だけこんな思いしなきゃいけないんだ!期待に答えてほしけりゃ佐藤持っていけばよかっただろ!なんで俺なんだよ!不完全なんだろ!俺は負けたんだよ!負けて辛かったんだよ、怖かったんだよ!」

 ようやく吐き出せた言葉に、思わず彼の鼻先が詰まった。目元も潤んでいるかもしれない。けれどそんなことは気にならなかった。

 恐怖の告白は思った以上に勇気が必要で、同時に弱い自分を認めたようで情けなくて恥ずかしい。けれど、それでようやく安心できた。ようやく吐き出せた安心感と共に、素直な気持ちが胸いっぱいに広がって、チキュウにいた頃の愛しい思い出が甦る。初めて竹刀を握ったとき、筋がいいと褒めてくれた父と、父の友人の言葉が嬉しかった。初めて出場した中学総体で、家族総出で応援に来たと知ったとき、むず痒くて恥ずかしくて、けれどとても嬉しくて、家族のためにと純粋に張り切っていた。

 瞼の裏に浮かぶ光景への懐かしさと、あの手を振り払ってしまった後悔と、酷い言葉をかけてしまった人々への謝罪の気持ちが、じわじわと湧き上がってくる。この世界に連れてこられて帰りたいとは思っても、ここまでチキュウの光景に愛しさを抱いたことは、今まで一度もなかった。

「…もし、あいつ信じて、それで、本当にパシリにされたら、どうするんだよ。俺、逃げ場どこにもなくなるだろ…」

 受け止めてくれる人は必要なかった。否、自分から必要ないと言ったから、環境もその言葉に準じた。父も母も小言以外は自分に対し口を利かず、妹は鬱陶しいお節介しか焼かない。

 まるで今の自分と変わりがない。自分のことをちゃんと知っているなんて顔をして、実は全然知りもしない大人たち。年が近い連中も、結局自分のことしか頭にない。賑やかだと思っていたし、この環境を気に入っていると思っていた。だが、結局それは、自分一人の思い上がりではないのか。

 感情の奔流は、アキラとしても少し大人しくなっていく自覚はあった。だが、まだ彼には多くの鬱積があった。感情を、本音を表に吐き出すことが今まで全くなかったから、いつもとは違った箇所のスタミナが不足してきつつあるのだろう。それでもまだ心は勢いを留めない。腹の奥底から煮え上がるように、次の言葉が湧き上がる。

「しかも何もしてないのに不完全って何だよ…俺の全部を知ってもいないのになんでそう決め付けるんだ!その上、不完全だって決め付けたら人を勝手に放り出しやがって、今度は刺客!?俺はモノじゃない、道具じゃない、ゴミじゃない!人間なんだ、意思があるんだよ!」

 心の底からの慟哭は、少しずつアキラの心を軽くする。そうだ自分は人間で、意思があって、周りに振り回されるだけじゃないんだと自分で自分に言い聞かせる。根拠などない。けれど、そう叫ぶ者が、実はそうじゃないなんてありえない。

「お前らは不完全って言うけど、じゃあお前らは完全か、完璧なのか!?…違うよな?完璧じゃないから呼んだくせに、なんで俺を不完全だとか言える!決め付けられる!俺を殺す権利を持ってるってのか!?お前らだってどうせ、他人に頼るしかないから頼ったんだろ、馬鹿野郎!!!

 息が上がる。一気に叫んだせいで、喉は呼吸でも痛くなる。唾を簡単に飲み込め、いつの間にか緊張していないことは分かったが、今はどうでもよかった。

「……仲間仲間って言うけど、本当に俺のこと分かってる奴なんていないだろ。何だよ…、都合いいときだけ俺に話振って、他は全部蚊帳の外か、もう決まったことだろ。俺のこと知りもしないくせに、…知りたいとも言わないくせに、知ったような口きくなよ。それで慰められてもちっとも嬉しくないんだよ。自分の都合で俺を利用するなよ。俺の知らないところで仲間増やせばいいってもんじゃないだろ、人数多ければどうでもいいのかよ。見守ってるとかふざけたこと言うなよ…好きなようにしろって言ったから好きなようにしたんだよ…そのくせ俺を責めるのか。俺が拒絶したらそのままか。ああそうだよな、俺は扱いやすいよな。けどな、生ぬるい同情なんか、もう、うんざりなんだよ…!」

 それから平手が飛んだ。

 飛ばした相手は言うまでもなく、その表情も予想通りといえばその通りだった。

 思った以上に痛い片頬に手を当てて、呆然としたままアキラは真正面を見る。眼前のその人は、今は不気味でも不謹慎でも、薄っぺらい同情心も宿していない目をしていた。ただ一言で言うならば、現実的。

 しかしその方法は、アキラのどこまで続くかも知れない鬱憤を、折り良く断ち切ってくれたものでもある。手で導火線を毟るに等しい強引さを持つのは確かだが、頬に感じる痛み以上に、彼は自分の心の中に清々しさを感じた。そして、痛みのおかげで少なからず素直に痛がる冷静な自分がいることも発見する。

「気が付いた?」

 気付けにしてはなかなか衝撃的な方法だったが、リトル・スノーは短くそう尋ねる。それに、アキラは思わず頷き、次に平手で自分の精神をリセットしようとする手段に思わず納得してしまった。多分、ここに水道が巡らされていたら、バケツの水を頭から吹っかけられていたんだろうなと、能天気な考えが頭に浮かぶ。

 リトル・スノーはそれを見受けると、笑いもせずにそう、と一言返す。それから、振り子のように大きく動いた。

「不完全なんて言って、ごめんなさい。わたしのせいであなたをこちらに呼んでしまって、ごめんなさい」

「……え」

 顔が見えなくなるほど深々とお辞儀をされる。白銀の髪が重力の影響で浮きかけるが、一気にテラスのタイルに吸い寄せられていく。

 いくら憎らしい相手とはいえ、小心者の気があるアキラは、生前はこの女性が女王だったという話を思い出すと、途端に冷や汗が吹き出てきた。恐らく、こんなふうにこの人から謝られた人物は、生前からも片手で数えるほどしかいないだろう。

「そんな、…ちょ、…」

 うろたえる彼とは違い、リトル・スノーはそのまま動かない。彼が何らかの反応を示すまでは頭を上げないつもりであることは明白だった。それは、ある意味では彼を落ち着かせるための時間なのかもしれない。

 アキラは慌てて頭を上げさせようとするが、そんなときはどう言っていいのかすぐに出てこない。散々不満を吐き出してきて、そのきっかけがこの女性の侮辱であることもあるから、いつもの調子で別にいいとか、気にしてないとは言い辛い。なら認めるときはどう言えばいいのか、咄嗟に出てこない自分の語彙に、彼は苛立った。

 自分でも傲慢なことを、アキラは相手の立場すら考えず吐き出し続けたことは分かっていた。というよりも、彼自身はリトル・スノーに向かって叫んだつもりは全くなく、今まで彼が鬱屈した気持ちでいた全ての人々に吐き出した言葉を、女性が聞いていただけの話だ。遠慮と投げやりな姿勢を続けたせいで、溜め込んできた汚い独りよがりな感情を、彼の心を傷付けるかたちで女性がこじ開けた。しかし、そんな誰がどう見てもわがままな感情を吐き出したのだから、今までの女性のイメージから言って、まずは懇々と説教されるか図星を突かれるだろうなと思っていただけに、謝られるなんて思ってもいなかった。

 とりあえず、今はリトル・スノーに頭を上げさせることが最優先である。短い人生なりに今までの鬱憤をたっぷりと吐き出して、色んな箇所がまだ麻痺したままのアキラには、女性への嫌悪感など二の次だった。吐き出せたことに対して感謝はしていないし、謝られることは当然だろうとは思うが、このままではいけないことも分かっている。

「…分かったから、頭を上げてくれ」

 ようやく適切な言葉を告げると、リトル・スノーはその通りに頭を上げた。その目も口も、笑っていなかった。感情が分からない、ただ真剣であることだけが読み取れる顔を彼に見せて、そのまま黙ったままだった。

 再び彼はうろたえる。しかし、少しずつ落ち着いてきたことは確からしく、そのうろたえは顔や言動にまでは辿り着かなかった。内心焦るものの、もう一度深呼吸することを自分に命じると、身体はその通りにしてくれる。

「…………」

 しかし、沈黙は横たわったままだった。

 ここでようやく彼は気が付く。リトル・スノーが自らの非を認めたということは、即ちこの場では自分のほうが発言権が強くなっているということ。普段は同年代の仲間とも受動的な受け答えしかしなかった上に、大人たちの会話ともなれば最低限のことに口を挟むだけだった身の上では、その状態に全く慣れていないのだが。

 頭の中で、発言を許可する言い方を、アキラは黙々と模索する。相手に合わせた言い方を考えるのは、案外に難しいことに気がついた。当然のことだと思っていたが、何故かここに来ると難しい。それは場の空気のせいか、それともリトル・スノーという、彼にとって単純に一言で言い表せない立場にいる女性が相手だからか。

「何か、言いたいことあったんだろ。説明してくれ」

 ようやく最初にここに呼ばれた要件を思い出し、アキラは嘆息と同時にリトル・スノーを見る。感情の高揚や慣れないことをした麻痺の感覚が解けてきたのか、今は視界に映る女性が、少し憎らしく見えた。暴言や自分を巻き込んだことに謝ったから、まだ明確な怒りや嫉妬は湧いていないが。

 リトル・スノーは軽く頷くと、まだ真剣な表情のままで口を開く。その目は静かだが、穏やかとは言い難い。瞳は無機質な輝きを持ち、最初に女性が現界することを説明したときよりも更に告白することへの重みを感じた。

「あなたには言ってなかったし、聞かれてなかったから、その前に何故、わたしがあなたの考えを読めたのか説明するわ。気付いているとは思うけど、人の心が読めるの」

 実にごく簡単に、リトル・スノーは告白する。それに対し、再びアキラは言葉を失った。

 そんな予感がしたようにも思うし、まさかそんなと否定したようにも思うし、それでも余裕綽々で納得する自分もいる。けれど結局、自分の気構えもなしに心の中を覗かれていたと知ることに対する嫌悪感が、彼の胸に一本の線の如くはっきりと浮かび上がった。

 眉間に皺を寄せて非難の言葉をかけようとするが、それもどうせ見破られているのだろうと思って文句をぐっと飲み込む。それに、謝ったばかりの相手をまた責めるのかと思うと、自分が悪者になった気がするのだ。そんな気持ちも分かっているはずなのに、リトル・スノーは何も言わず説明を続ける。

「だから、今日の夜にあなたと顔を合わせたとき、あなたが瞬間的に思い浮かんだものが分かったの。この力は普段から、常にスイッチが入っているわけじゃなくて…そうね、セーフモードとか、充電状態にあるようなものだから、読むつもりのときでない限りは、何を考えているのかはほとんど分からない。けれど、相手が強く思ったことは、読むつもりがなくても読んでしまう。だから、あなたがあれを見たときに、強い衝撃があったことはよく分かったわ」

 リトル・スノーの説明に、彼は微妙な親近感を覚えたが、それは当然のことだ。こちらの世界では機械が一般的ではないため、チキュウには日常的だった充電などの例え方は全く聞かない。

 同時に、今まで耳に入ってきた女性と誰かの会話の中でも、そんな言葉が使われていないことに気が付いた。女性は故意にそれらの単語を使っているわけではないようで、この世界に自分よりずっと馴染んでいることが嫌でも分かってしまう。そして浮かび上がる気持ちは、この世界の人々と後腐れなく会話を楽しめることに対する嫉妬なのか、もう帰る気すらない同郷の人間に対する軽蔑なのか。

「じゃあ…あれは、何なんだ」

「証拠よ。わたしの背負う罪と、わたしが死者であることの」

 リトル・スノーは自身の胸に軽く手を当てて、そう短く告げる。それも告白の一つであり、同時に世界に対し宣言するようにも感じた。

 しかし、アキラはその言葉に違和感を持つ。死者である証拠、とは意味が飲み込めないことはない。死人だから体が腐るなんて気持ちのいい話ではないが、ゾンビというものを知ってる彼には納得できた。だが、罪が分からない。今までのリトル・スノーの話を聞けば、名君であることは確実なのに、何故罪を背負うのか。

 視線を向けることで説明を待つ彼に、リトル・スノーはやはり無表情のまま唇を開く。肌寒い夜の澄んだ空気に存在するその人は、罪など無関係であるかのように神秘的なのに。

「…あまり詳しくは言えないけど、わたしは多くの罪を持つの。戦時中の為政者は相応にして罪を背負うものだから、わたしも例に漏れず、死後は罪人である、ということ」

 リトル・スノーはそんな曖昧な言葉で、彼の疑問に答えようとした。当然、彼の疑問にしっかりと答えるものではなかったが、それで一応この場は納得してほしいという意図は汲み取れる。

 全てを知ってしまえば、自分から何かの関係を持ちたがる――思いたくないが、情を持ってしまう可能性があるかもしれない。それよりも、半端で単純な嫉妬心を持つままのほうが、まだいいんじゃないかと判断する。そうしてアキラは頷くと、リトル・スノーは再び言葉を続けた。

「わたしがここに来た本当の理由は、その罪を償うため」

 大仰だが意味が分からないと、アキラは眉をしかめる。だが、リトル・スノーもそれで説明を終わらせるつもりはなかったらしく、そのままの調子で言葉は紡がれる。

「現世に降り立ち、愛するひとと再会することも叶わず、ただ一ヶ月、降り立った地から動かず、何も生み出さぬ苦痛を受け続けること。土地の者と心通わせ、無残な別れに心を痛め、結局は誰の思い出にも残らず一人でこの世を去ること」

「………は?」

 アキラはその盟約に、何とも反応し難く、中途半端に口を開けてリトル・スノーを見返した。

 女性がリトル・スノーと分かったときに聞いた、あの制限とは全く異なる意味を持つそれらは、罪苦というにはあまりにも間接的過ぎる。だが、いまいちその苦痛や悲嘆が分からないだけに、これら精神的な苦痛は一般の拷問よりも同情し難い。そして、それこそが罰を与えた者の狙いであることなど、アキラには分かるはずもなかった。

 そんな未熟で、だからこそまだ世界に対し悟ることも諦めることもなく、痛みに慣れてもいないアキラを、女性は悲しげな目で見つめていた。その視線に気がつくと、彼は何とか阿呆のように開けていた口を閉じ、しっかりとした視線を持ち直して相手を見返す。あの目つきから自分を馬鹿にしているわけではないことは分かっていても、じっと見られるに相応しい顔ではない。

「用意されたこの体はね、特別製なの」

 リトル・スノーはゆっくりとした動きで、そう呟きながら自らの胸元に手を当てる。だが急に話題を変えられたアキラは、思わず目を瞬かせた。

 反射的に、あの腐ったようなグロテクスな箇所以外は、美しく清らかで、だのに匂うような艶も感じさせるリトル・スノーの脚を思い出し、赤面して頭を振る。そんな場合じゃないんだと自分に言い聞かせ、過剰に反応してしまう思考からも逃れようと、更に目つきを厳しくして話を逸らそうとした。

「そんなこと、別に俺は聞いてなんか…」

「いいから。最後まで聞いて?」

 少し強い口調で言われ、アキラは押し黙る。確かに、人の話は最後まで聞くことは幼稚園でも教えられないほど初歩的な礼儀ではあるが、初歩的過ぎてうっかり忘れてしまうこともあるのが実情だ。そのついでに言えば、自分の話を最後まで聞かない人間が仲間の中でも特に多いので、何故彼らは遮られず、自分は遮られるのか、不平等だとすら思った。

 しかし、アキラのそんな不満を感じ取ろうともせず、リトル・スノーは無表情と感じてしまうほど真剣な目つきで、胸元に当てた手を軽く握った。

「この体…器、と言った方がいいのかもしれないわね。これを創ったのは冥界王本人。冥界王は、滅んだ器から出た魂を扱い、裁き、管理する閻魔大王みたいなもの。死に関する、この世界でただ一人の研究者であり、冥界そのもの」

「それくらいは分かる」

 閻魔、などの名前すら懐かしいが、馬鹿丁寧に説明されても嬉しくなはない。自分の不満の声を挫かれたこともあり、多少苛立ってアキラはそう口を挟む。

 だが、説明をするリトル・スノーの方はそれで苛立つことはない。それも当然か、と少し納得した様子で困ったように笑ったが、また真剣な表情に戻って続ける。

「この器は、…今はもう古く、政府からは禁じられて使えない魔法だけど、その冥界王が最も得意とする、呪術、つまりものが腐り行く魔法がかかってるの」

 それがどうした、と苛立ち吐き捨てそうになって、アキラは思わず口を噤んだ。これはそれがどうした、なんて相槌で済む問題ではないはずだ。

 ものが腐るということは、ものが老化し、ものが大地に還るということ。つまりこの女性、否、この眼前にある美しい女のかたちをした器は。

「現界から丁度三十日、つまり今日から十八日後、いいえ、もう深夜は越えてるでしょうから、十七日後きっかりね」

 空をついと見上げ、月の位置を確認すると、女性は軽く頷いた。それから嫌な予感を抑えられない彼に向かって、何ともないように再び口を開く。まるで、今日はわたしがここに来て十三日目ね、とでも言わんばかりに。

「その日にわたしは死ぬわ」

 淡々とした口調で、もう死ぬことすら慣れきっているように、リトル・スノーは告げた。『不完全』だと言われたときほどではないが、それでも衝撃を受け、確実に絶句している彼に微笑みすら見せて。

「これで四回目だから気にしないで。他の人よりは死に慣れてるの。…言葉は、少しおかしいけど」

 肩をすくめて冗談っぽくリトル・スノーは笑うが、まだ一度の生しか体験したことがない彼にとっては笑い話にもならない。

 確実な寿命が、死への宣告が決まりきっている人生など、想像したくもない。だが、その想像したくもない生が、眼前の女性に科せられているのだ。

 まだ絶句している彼をちらと見ると、リトル・スノーは穏やかな微笑みを宿したまま軽く俯いた。だがその笑みは、どう見ても空元気であるとしか思えないほど明るすぎる。

「…ここに来る瞬間も見られたみたいだし、あそこも見られたし…。あなたには見られたくないところばかり見られてるわね。隠す意味がなくなるわ」

 多少不満をこめたような物言いだったが、まだアキラの中の衝撃は抜けきらなかった。冷静な頭の一部は、そういう問題ではないだろうとリトル・スノーの愚痴の奇妙な点を指摘するが、体の方は全くついてこない。

 リトル・スノーの説明はこれで終わりらしい。気持ちを切り替えるように視線を上げると、その表情は悲しいくらい晴れ晴れとしていた。もうアキラに――生きていて、まだ自分の過ごしてきた年齢よりもこれから生きる年数のほうが多いであろう、同じ世界にもといた少年に対して、隠すことは何もなく、軽蔑されても気味悪がられてもそれは当然であると受け入れるような顔だった。

 彼には何の感情も湧き上がって来ない。汚い言葉を投げかけるべきなのか、得体の知れないものを見る眼差しを向けるべきなのか、モンスターと変わりがない化け物だと思えばいいのか、全く分からなかった。相変わらず、この目の前で悲しいくらい能天気に笑っている女は、自分の理解の範疇に終えない、としか思えない。それだけしか、頭の中には言葉になって出てくるものがない。

 ただ、なんとか冷静に動く部分は、彼の感情面とは裏腹に、静かに彼の体を乗っ取っていた。

「なんで、…わざわざ死ぬんだ?」

「罰だからよ」

「あんたの脚にあったあれは、体が腐っていってるってことなのか?」

「そういうことね。内部から少しずつ腐っていくから、それが皮膚にまで現れ出たの」

「……あんたは、今は、生きてるのにか?」

「ええ」

「痛むんじゃないのか」

「罰の内容に入っているの。言わなかったかしら?現界する一ヶ月、何も生み出さない苦痛を感じ続けると」

「………じゃあ、…じゃあ、あんたは、いつになったら罪を償いきれるんだ?」

 既に現時点でも、生きながらにして内部から腐っていく苦痛を味わい、そして死んだ体験を三度も経験した女性は、少し辛そうに笑った。

「さあ。けれど、三桁か四桁の死で収まればいいほうでしょうね。わたしのせいで死んでしまった人々の命の数だけ、苦しむんだから」

 言葉に詰まったアキラとは違い、リトル・スノーは何ともないようにそう答えた。自らの所業を全て認めた罪人にしては、その笑顔は柔らかすぎる。

 そして彼は、その言葉に納得してしまった。それとも笑顔に納得したのか。どちらかも分からないが、それでも納得したことだけは確かだった。

 偉業を成し、歴史に名を残す為政者であっても、死後は皆等しく罪人だと言った意味がようやくここで分かった。そして、それまで女性に敵意を抱いていた自分が情けなく見え、有名だから力を持っているからと言って妬んでいた過去の自分に言って聞かせる。

 ちっとも羨ましくなんかない。勝手に死んだ奴の責任すら罪のうちに入り、自分の死後も不幸な同胞を生み出し続けるこの女の立場なんか、全く羨ましくないぞ、と。

 

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